「ポテトにかけるのは元・魚醤!?冷蔵庫の定番『トマトケチャップ』が辿った数奇な運命」

冷蔵庫を開けると、高確率でドアポケットに鎮座している赤いボトル。そう、トマトケチャップ。ポテトフライにかけたり、オムライスにかけたり、私たちの食卓に欠かせない定番調味料。

でも、ちょっと待ってください。

この赤いソース、もともとは”魚臭い醤油”だったって知っていますか?

「ケチャップ」という言葉のルーツは、なんと中国語の「鮭汁(kê-chiap)」にさかのぼります。そう、あの甘酸っぱい赤いソースは、500年以上前の中国沿岸部で生まれた魚の発酵調味料から始まったのです。

この記事では、「ケチャップ=トマト」という常識がひっくり返る歴史ツアーへご案内します。冷蔵庫の赤いアイツの正体を、一緒に探ってみましょう!!

第1章:中国・東南アジアの”元祖ケチャップ”は魚醤だった

物語の舞台は、500年以上前の中国沿岸部、福建省あたりから始まります。

当時、この地域では魚を塩と一緒に発酵させて作る、濃い茶色の液体調味料が重宝されていました。いわゆる「魚醤(ぎょしょう)」です。ベトナムのヌクマム、タイのナンプラーと言えば、ピンとくる方も多いでしょう。これらは全て魚醤の親戚なんです。

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福建語で「kê-chiap(鮭汁)」と呼ばれるこのソースは、塩漬け発酵魚から作った、強烈にうま味の濃い調味料でした。福建や東南アジアの港町では、中国人航海者や商人たちがこの魚醤を愛用し、船に積み込んで長い航海に出ていました。

想像してみてください。薄暗い屋台のテーブルに置かれた、褐色の液体が入った一瓶。蓋を開けると、鼻をつく魚の香りが立ち上る。

現代の私たちが知っているケチャップとは、まったく別物です。

ケチャップの原型は、屋台のテーブルに置かれた”強烈に魚くさい一瓶”だったかもしれない—そう考えると、なんだか面白くないですか?

この魚醤が、やがて世界中を旅することになるとは、当時の福建の人々も夢にも思わなかったでしょう。

第2章:ケチャップ、海を渡る ― ヨーロッパで”なんちゃって再現”が始まる

17世紀から18世紀にかけて、イギリスやオランダの船乗りや商人たちが東南アジアに進出しました。そこで彼らが出会ったのが、例の魚醤ソースです。

「このうま味、すごいな。ヨーロッパに持ち帰りたい!」

しかし、問題がありました。ヨーロッパには同じタイプの魚醤がなかったのです。そこで彼らは考えました。「ないなら、作ればいいじゃないか」と。

こうして始まったのが、“ケチャップもどき”の再現プロジェクトです。きのこ、クルミ、アンチョビ、牡蠣—手に入る素材で、あの濃厚なうま味を再現しようと試行錯誤が繰り返されました。

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18世紀のイギリスの料理書には、すでに

「mushroom ketchup(マッシュルームケチャップ)」などのレシピが登場しています。これは今の甘いケチャップとは正反対で、しょっぱくて旨味の強いドロッとした「ダシ醤油」のような存在でした。

面白いことに、あの『高慢と偏見』の著者ジェーン・オースティンも、マッシュルームケチャップを好んでいたと言われています。文学少女が愛したケチャップは、茶色でキノコ味—なんとも意外なギャップですよね。

ヨーロッパのケチャップは、もはや魚醤ではありませんでした。でも「濃厚なうま味調味料」という魂は、しっかり受け継がれていたのです。

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第3章:トマト、ようやく登場 ― 19世紀アメリカの大転換

さて、ここまでケチャップの話をしてきましたが、まだトマトは一度も登場していません。不思議ですよね?

実は19世紀初頭まで、欧米ではトマトは「毒があるのでは」と敬遠されてきました。南米原産のナス科植物ということで、ジャガイモの芽のような危険性が疑われていたんです。

転機が訪れたのは1812年。アメリカ・フィラデルフィアのジェームズ・ミースという人物が、記録上初のトマトケチャップレシピを発表した事からでした。

ただし、当時のトマトケチャップは、今のものとはかなり違っていました。サラサラで酸味が強く、砂糖も少ない”トマト酢ソース”といった感じです。

しかも保存料も安定しておらず、すぐに傷んでしまうこともしばしば。

「開けたら急いで使い切らないと危険」という、なかなかワイルドな調味料だったわけです。

初期のトマトケチャップは”ロシアンルーレット調味料”だったかもしれません-蓋を開けるまで腐っているか分からないという、ちょっとスリリングな存在だったんですね。

それでもトマトの鮮やかな赤色と、独特の酸味は人々を魅了しました。徐々にトマトケチャップは、他のケチャップを駆逐していくことになります。

第4章:ハインツの登場と”赤い甘いケチャップ”の完成

トマトケチャップを「世界標準」に押し上げたのが、1876年にハインツが発売した製品です。

創業者のヘンリー・J・ハインツは、トマトの熟度、酢、砂糖、スパイスのバランスを徹底的に研究しました。そして、粘度と味わいが安定した、今日のケチャップの原型を確立したのです。

当時のアメリカでは、食品の安全性が大きな社会問題になっていました。不衛生な工場で作られた食品や、危険な保存料を使った製品が横行していたんです。

ハインツはこの問題に真正面から取り組みました。保存料に頼らない清潔な製造プロセスを確立し、透明なガラス瓶で「中身を見せる」という革新的な戦略をとったのです。「何も隠すものはありません」というメッセージが、消費者の信頼を勝ち取りました。

こうして「ケチャップ=甘酸っぱい赤いトマトソース」というイメージが、世界中に定着していく事となりました。

ただし、ハインツのガラス瓶には一つ問題がありました。あの独特な形状のせいで、ケチャップがなかなか出てこないんです。瓶の底を叩いたり、振ったり、ナイフを突っ込んだり—皆さんも経験があるのでは?

500年かけて海を渡ったソースは、最後は瓶の口で渋滞する運命だったというオチ…なんだか皮肉ですよね。

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第5章:言葉の旅 ― 「kê-chiap」から「ketchup」へ

さて、ケチャップという「モノ」の旅と並行して、「言葉」も面白い旅をしています。

福建語の「kê-chiap(鮭汁)」は、魚醤を指す言葉でした。これがマレー語やインドネシア語に入り込み、「kecap(ケチャップ、キチャップ)」という形になります。

17世紀、東南アジアに進出したイギリス人がこの言葉を借用し、「catchup」「ketchup」などの表記で英語に取り込みました。

1690年の英語辞書には、早くも「高級な東インドのソース」として「catchup」が登場しています。

興味深いのは、現在の東南アジアでは「kecap」「kicap」が醤油系ソース全般を指す言葉になっていることです。インドネシアの「kecap manis(甘い醤油)」、マレーシアの「kicap」—これらは全て「ケチャップ」の親戚なんです。

語源には他の説もあります。例えば「トマトジュース」を指す中国語から来たという説など。ただし歴史研究では、魚醤ルーツ説が最も有力とされています。

考えてみれば不思議な話です。旅するうちに”魚醤ソース”の名前が”トマトソース”の代名詞になるなんて、言葉もかなりの大冒険家ですよね。

まるで「タイから来た人がフランスで暮らしているうちに、いつの間にかドイツ人と呼ばれるようになった」ような感じです。

第6章:現代のケチャップと”魚”の名残を探してみる

現代のトマトケチャップには、もちろん魚は使われていません。でも、よく考えてみてください。

「うま味を濃縮した液体調味料」というコンセプトは、元祖の魚醤とまったく同じなんです。形を変えても、DNAは受け継がれている—そう考えると、なんだかロマンを感じませんか?

実は世界には今も、魚醤ベースの”ケチャップの親戚”のような調味料が残っています。東南アジアの魚醤はもちろん、イギリスでは今でもマッシュルームケチャップが商品として販売されています。高級食材店に行けば、クルミやアンチョビのケチャップも見つかるかもしれません。

ここで一つ、想像してみてください。

もし最初に出会ったのが「魚臭いケチャップ」だったら、あなたはポテトフライにかけたいと思ったでしょうか?

おそらく答えは「ノー」でしょう。私たちは幸運にも、500年の進化の末に完成した「トマトケチャップ」という形で、この調味料と出会うことができたのです。

まとめ:ケチャップを見る目が変わる一言オチ

ケチャップの歴史を振り返ると、こんな3段階の進化が見えてきます。

魚醤(中国・東南アジア)→ きのこ&ナッツ系ソース(ヨーロッパ)→ トマトケチャップ(アメリカ)

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500年以上かけて、魚臭い茶色の液体は、甘酸っぱい赤いソースへと変身しました。でも「濃厚なうま味を提供する」という役割は、最初から最後まで変わっていません。

次にポテトフライにケチャップをかけるとき、ちょっと思い出してみてください。

「これは元・魚醤エリートの末裔なんだな」と。…

あの赤いソースが、ほんの少しだけ特別に見えてくるかもしれませんよ。

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追記

「今でもイギリスの一部では『Mushroom Ketchup』がソースとして売られています。また、フィリピンではトマトの代わりにバナナを使った『バナナケチャップ』が主流。ケチャップの旅は、実はまだ終わっていないのかもしれません。」

終わり

最後までお付き合い下さり有難う御座います。

この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。

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【昭和7年の狂乱】月産500万個!日本中が3円のヨーヨーに熱狂した”空前絶後”の社会現象を徹底解剖

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プロローグ:1933年、新聞が報じた驚愕の数字

「月産500万個」

昭和8年(1933年)、新聞各紙がこの驚異的な数字を報じたとき、日本中が一つの玩具に「憑かれた」状態にありました。

当時の日本の人口は約6,500万人。つまり、わずか1年で国民全員が手に入れられるほどのヨーヨーが生産されていたのです。

銀座の裏通り、学校の校庭、会社の事務室、路面電車の中――あらゆる場所で老若男女が手のひらサイズの木製円盤を上下に躍らせている。街角では着物姿の娘がヨーヨーを売り歩き、子供たちは授業中にこっそりポケットからヨーヨーを取り出しては先生に叱られる…

想像してみてください。スマートフォンもゲーム機もない時代。たった10銭の木製玩具が、これほどまでの社会現象を巻き起こした瞬間を。

なぜ、この小さな円盤は人々をそこまで夢中にさせたのでしょうか?

第1章:突如として訪れた”ヨーヨーの年”

昭和7年、暗い時代に差し込んだ一筋の光

昭和7年(1932年)から8年にかけての日本は、決して明るい時代ではありませんでした。世界恐慌の余波が色濃く残り、満州国建国による国際的緊張が高まる中、庶民の生活は苦しさを増していました。

そんな時代に、突如として現れたのが「ヨーヨー」でした。

世界を駆け巡った木製円盤

ヨーヨーブームは日本だけの現象ではありませんでした。

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∙ 1929年:アメリカ・カリフォルニア州で日産30万個の大ヒット

∙ 1931年:ロンドンで流行の兆し

∙ 1932年:イギリスで世界選手権大会開催、ヨーロッパ全土に拡散

∙ 1932年末:ついに日本に上陸

インターネットもSNSもない時代に、一つの玩具が世界中をこれほど短期間で席巻したのは、驚異的な現象でした。

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新聞が報じた驚愕の数字――月産500万個の狂乱

月産500万個――昭和8年(1933年)、新聞各紙がこの数字を報じたとき、読者は我が目を疑ったに違いありません。

当時の日本の人口は約6,500万人。単純計算すれば、わずか1年で国民全員が手に入れられるほどの量と言う事は先述しましたが…これは誇張ではなく、実際の生産統計に基づく数字でした。

価格も二極化していました。

∙ 外国製の高級品:3円(当時の大卒初任給が50円程度)

∙ 国産の普及品:10銭(かけそば1杯が5銭の時代)

神奈川県小田原近郊のある村では、毎日3万個ものヨーヨーが生産されていたという記録も残っています。平和な農村が、突如として「ヨーヨー工場」に変貌したのです。

数万人が押し寄せた日本初の「ヨーヨー選手権大会」

昭和7年(1932年)11月、日比谷公園で日本初の「ヨーヨー選手権大会」が開催されました。

この大会には数万人もの観衆が押し寄せたと伝えられています。単なる子供の遊びの大会に、これだけの人が集まる――現代の感覚では想像しにくいかもしれませんが、当時の熱狂ぶりを物語る象徴的な出来事でした。

日比谷公園は人で埋め尽くされ、選手たちが披露する技の一つ一つに歓声が上がりました。単なる「遊び」が「競技」として認識され始めた歴史的瞬間だったのです。

第2章:世界を回ったヨーヨーの歴史――古代から近代まで

神秘に包まれた起源

実は、ヨーヨーの起源には諸説あり、いまだに明確な答えは出ていません。

∙ 古代ギリシャ説:紀元前500年頃の壺にヨーヨーらしき玩具を持つ少年の絵が描かれている

∙ フィリピン狩猟具説:元々は狩猟用の武器だったという説(※現在では、ダンカン社などが販売戦略の一環として広めた俗説という見方が強い)

∙ 中国発明説:中国で生まれた玩具が世界に広まったという説

いずれにしても、ヨーヨーは「人形の次に古い歴史を持つ玩具」と言われるほど、人類と長い付き合いがあるのです。

特に「武器説」については、20世紀のマーケティング戦略として広められたプロパガンダである可能性が高く、歴史的証拠は乏しいことが現在では指摘されています。

しかし、この「武器だった」というストーリーが、ヨーヨーに神秘的なイメージを与え、ブームを加速させたことは間違いありません。

江戸時代の日本でも大流行していた!

実は、ヨーヨーは昭和初期が初めて日本にやってきたわけではありません。

18世紀、中国経由で長崎に渡来したヨーヨーは、享保年間(1716-1736年)に「お蝶殿の手車」という優雅な名前で、京都や大坂で流行しました。鈴木春信の浮世絵『吉原美人合わせ』(1770年)には、遊女がヨーヨーで遊ぶ姿が描かれています。

江戸では「蜑の釣りごま(あまのつりごま)」と呼ばれ、庶民の間で親しまれました。糸を垂らして回す様子が、漁師(蜑)が釣り糸を垂らす姿に似ていたことから、この名がついたと言われています。

つまり、日本人とヨーヨーの出会いは、昭和初期から遡ること200年以上前だったのです。

近代ヨーヨーの誕生――フィリピン移民の大発明

現代につながるヨーヨーブームの源流は、1920年代のアメリカにあります。

フィリピン移民のペドロ・フローレスが、故郷の伝統的な玩具をヒントに事業を始めたのが始まりでした。そして1928年、実業家のドナルド・F・ダンカンが「ダンカン社」を設立。大規模なプロモーション活動を展開し、ヨーヨーは世界的な玩具へと成長していきました。

ダンカン社のマーケティング戦略は極めて巧妙でした。「フィリピンの狩猟武器が起源」という(おそらく虚構の)ストーリーを広め、ヨーヨーに神秘性とロマンを与えました。実演販売、競技会の開催、技の体系化―これらすべてが計算された戦略だったのです。

昭和初期に日本を席巻したのは、まさにこの「ダンカン・ヨーヨー」の流れを汲むものでした。

第3章:熱狂の記録――当時のエピソード集

誰もが夢中になった光景

学生、会社員、モダンガール(モガ)、商店主、子供から大人まで――昭和8年の日本では、あらゆる人がヨーヨーを回していました。

授業中にこっそりヨーヨーを回して先生に怒られる子供たち。事務室で仕事の合間にヨーヨーの技を競い合う大人たち。街角では着物姿の娘がヨーヨーを売り歩く姿が見られました。

路面電車の中でも、銀座の裏通りでも、あらゆる場所でヨーヨーの「シュルシュル」という音が響いていました。まさに、日本中がヨーヨーに「憑かれた」ような状態だったのです。

社会問題化するほどの人気

ブームが過熱すると、思わぬ問題も浮上しました。

子供の世界では「ヨーヨーを持っていないとバカにされる」という同調圧力が生まれました。たった10銭とはいえ、不況下でそれすら買えない家庭も少なくありませんでした。

「学校にヨーヨーを禁じてもらいたい」という親からの嘆願も相次ぎ、多くの学校が「ヨーヨー持込禁止令」を出す事態に。

ある新聞には、こんな投書が掲載されました。「子供が毎日ヨーヨーをねだって泣く。10銭すら工面できぬ我が家の貧しさを、子供の前で認めねばならぬ辛さ」―世界恐慌下の日本で、ヨーヨーは単なる玩具を超えた社会的意味を持つようになっていました。

現代のゲーム機やスマートフォンをめぐる議論と、驚くほど似た構図がそこにはあったのです。

ビジネスとしてのヨーヨー・一攫千金を夢見た商人たち

商人たちは、このブームに目を付けました。月産500万個という大量生産体制が瞬く間に整えられ、小田原近郊の村々では農作業そっちのけでヨーヨー製造に勤しむ家庭も…

木材を円盤状に削り、穴を開け、糸を通す―単純な工程ゆえに、家内工業として成立しやすかったのです。ある村では、全戸数の8割がヨーヨー製造に関わったという記録も残っています。

街角でヨーヨーを売る娘たちの姿は、当時の風俗として定着しました。彼女たちは実演販売の先駆けとして、見事な技を披露しながらヨーヨーを売り歩いたのです。

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日本ヨーヨー競技会の先駆的活動

数万人が押し寄せた日比谷公園の大会を契機に、昭和8年、「日本ヨーヨー競技会」という組織が設立され、ヨーヨー普及のための冊子を制作しました。

この冊子には以下の内容が含まれていました。

∙ ヨーヨーの歴史解説

∙ 基本から応用までのトリック(技)解説

∙ 競技ルールと採点基準

∙ 得点表

単なる「遊び」を「競技」へと昇華させようとする試みは、90年以上経った現代の競技ヨーヨーシーンに直接つながる、極めて先駆的な活動でした。

数万人が集まった日比谷公園の光景は、ヨーヨーが単なる流行玩具ではなく、人々を熱狂させる「スポーツ」としての可能性を持っていたことを示していたのです。

第4章:なぜヨーヨーは人々を魅了したのか?

シンプルさの中の奥深さ

ヨーヨーの魅力は、そのシンプルな構造にあります。

木製の円盤二つと、一本の糸。これだけで成立する玩具です。誰でも手に取れば、糸を引くことで円盤が回転し、戻ってくる。その基本動作は数分で習得できます。

しかし、そこから先が深い。「犬の散歩」「世界一周」「ブランコ」「ループ・ザ・ループ」――様々な技が存在し、習得には練習と技量が必要でした。

日比谷公園に数万人が集まったのも、この「誰でもできるが、極めるのは難しい」という絶妙なバランスが、観客を魅了したからでしょう。

時代が求めた娯楽

世界恐慌後の不景気の中で、人々は安価で手軽な娯楽を求めていました。

10銭で買えるヨーヨーは、まさにその需要にぴったりと合致しました。映画館に行くお金はなくても、ヨーヨーなら買える。そして一度買えば、飽きるまで何度でも遊べる。

年齢、性別、階級を超えた「平等な遊び」であったことも、ブームを加速させた要因でしょう。日比谷公園の数万人の観衆の中には、富裕層も労働者も、学生も主婦も、あらゆる階層の人々がいたはずです。

国境を越える玩具の力

インターネットもSNSもない時代に、ヨーヨーは世界中をほぼ同時期に席巻しました。

アメリカで流行したものが、わずか数年でヨーロッパ、そしてアジアへ。言葉が通じなくても、技術を競い合う喜びは共通でした。

人間の本能に訴える「回転」の魅力。重力に逆らって手元に戻ってくる不思議さ。これらは普遍的な魅力だったのです。

新聞が「月産500万個」と報じたとき、それは単なる生産量の数字ではなく、国境を越えて人々を魅了する玩具の力を示す象徴的な数字でもあったのです。

第5章:仇花のように去ったブーム

昭和9年、突然の終焉

しかし、あれほどの熱狂も、長くは続きませんでした。

昭和9年(1934年)になると、街からヨーヨーをする人の姿が急速に消えていきます。わずか1年余りで、「一瞬の仇花」のようにブームは終わりを迎えたのです。

月産500万個と新聞に報じられた生産量は急激に減少し、小田原近郊の村々は再び農業に戻りました。街角でヨーヨーを売っていた娘たちの姿も消えました。

なぜブームは終わったのか?

理由はいくつか考えられます。

第一に、市場の飽和です。月産500万個という生産量は、やがて「持っていない人」を探すのが難しいほどに普及させました。誰もが持つようになれば、特別感は失われます。

第二に、新奇性の喪失です。最初は珍しく面白かった技も、誰もが同じことをできるようになれば、新鮮さは失われます。日比谷公園で数万人を魅了した技も、やがて日常の光景になりました。

第三に、次なる娯楽の登場です。昭和初期は様々な西洋文化が流入した時代。次々と新しい玩具や娯楽が登場し、人々の関心を奪っていきました。

流行とは、常にこうした運命を辿るものなのかもしれません。しかし、ヨーヨーの物語は、ここで終わりませんでした。

第6章:再び蘇るヨーヨー――現代へ続く情熱

戦後、再びやってきたヨーヨーブーム

一度は「仇花」のように消えたヨーヨーでしたが、何度も復活を遂げます。

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1970年代(昭和40年代後半):コカ・コーラ・ヨーヨーの衝撃

戦後、最初の大きなヨーヨーブームは1970年代にやってきました。コカ・コーラ社が仕掛けた大規模なマーケティングキャンペーンの一環として、「コカ・コーラ・ヨーヨー」が全国で配布されたのです。

アメリカ発のこの戦略は見事に成功し、日本中の子供たちが赤いヨーヨーを手に夢中になりました。昭和初期を経験した親世代にとっては、懐かしい遊びの「復活」でもありました。

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1980年代:スケバン刑事効果

1980年代には、意外な形でヨーヨーが注目を集めます。漫画・ドラマ『スケバン刑事』で、主人公が「武器」としてヨーヨーを使用したのです。

興味深いことに、ここで「武器としてのヨーヨー」というイメージが実現しました。昭和初期にダンカン社が広めた「フィリピンの狩猟武器説」(おそらく俗説)が、フィクションの世界で具現化したとも言えるでしょう。

鉄製の重いヨーヨーが敵を倒す道具として描かれ、ヨーヨーに「かっこいい」という新たなイメージが加わりました。

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1997年~:ハイパーヨーヨー旋風

そして1997年、バンダイが仕掛けた「ハイパーヨーヨー」ブームが到来します。

これまでのヨーヨーとは一線を画す、プラスチック製の高性能ヨーヨー。ベアリング内蔵で驚異的な回転時間を実現し、複雑な技が可能になりました。

漫画『超速スピナー』とのタイアップ、全国大会の開催、プロプレイヤーの育成―綿密に計算されたマーケティング戦略は大成功を収め、全世界累計2,700万個を販売しました。

昭和8年の「月産500万個」と比較すると、規模としては同等か、それ以上のブームだったことがわかります。

この時期に、ヨーヨーは「子供の遊び」から「競技スポーツ」へと明確に進化しました。

現代のヨーヨーシーン(2020年代)

現在、ヨーヨーは立派な「スポーツ」として確立しています。

日本ヨーヨー連盟(JYYF)が毎年「全日本ヨーヨー選手権大会」を開催し、世界大会も定期的に行われています。日本人プレイヤーは世界トップクラスの実力を持ち、数々のタイトルを獲得しています。

興味深いのは、昭和7年に日比谷公園で数万人を集めた「日本初の競技会」が、現代の競技ヨーヨーの原型になっているという事実です。90年以上の時を経て、あの時の試みが完全に実現したのです。

技術も飛躍的に進化しました。「バインドシステム」など、昭和初期には想像もできなかった高度な機構が導入され、人間業とは思えない超絶技巧が次々と生まれています。

YouTubeやInstagram、TikTokでは、世界中のプレイヤーが技術を披露し、情報を共有しています。国境を越えたコミュニティが形成され、リアルタイムで切磋琢磨する環境が現代では整いました。

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ヨーヨーが繰り返しブームになる理由

なぜヨーヨーは、一度廃れても必ず復活するのでしょうか?

それは、ヨーヨーが持つ普遍的な魅力にあります。

手のひらの中で回転する円盤。重力に逆らって戻ってくる不思議さ。練習すれば必ず上達する達成感。そして、シンプルながら奥深い技術体系。これらは時代が変わっても色褪せません。技術が進化し、デザインが変わり、マーケティング手法が洗練されても、本質的な魅力は変わらないのです。

昭和8年に新聞が「月産500万個」と報じた熱狂も、1997年に全世界で2,700万個が売れた現象も、根底にある魅力は同じなのです。

第7章:昭和初期ブームが遺したもの

日本における競技文化の礎

昭和7年11月、日比谷公園で開催され、数万人の観衆を集めた日本初の「ヨーヨー選手権大会」。そしてその翌年に設立された「日本ヨーヨー競技会」の活動は、極めて先駆的でした。

技を体系化し、ルールを定め、採点基準を作る――これらの試みは、90年後の現代に直接つながっています。現在の世界大会で使われている競技フォーマットの基本概念は、この時代に既に芽生えていたのです。

数万人が押し寄せた日比谷公園の光景は、ヨーヨーが「遊び」から「スポーツ」へと進化する可能性を、すでに示していました。

玩具マーケティングの先駆け

月産500万個という大量生産、外国製3円と国産10銭という価格差戦略、街角での実演販売――昭和初期のヨーヨービジネスは、現代の玩具マーケティングの原型と言えます。

新聞が「月産500万個」という数字を大々的に報じたこと自体、メディアを活用したマーケティングの一環だったかもしれません。数字が独り歩きすることで、さらにブームが加速する――この手法は、現代でも変わっていません。

海外のトレンドを迅速にキャッチし、国内で大量生産して市場を席巻する。この手法は、戦後の日本経済成長の一つのモデルケースでもありました。

世代を超えた記憶

「ヨーヨー」という名称は、この時期に日本で定着しました(江戸時代の「蜑の釣りごま」という呼称は完全に消滅)。

そして、昭和初期にヨーヨーで遊んだ世代が、戦後に親となり、1970年代のブームを懐かしく見守りました。その子供たちが親になり、1997年のハイパーヨーヨーブームで子供と一緒に遊びました。

祖父母から孫へと、3世代にわたって語り継がれる遊び――これほど長く愛される玩具は、そう多くはありません。

「月産500万個」という新聞記事を読んだ祖父母世代が、孫に「私の子供の頃もヨーヨーが大流行したんだよ」と語る。その連続性こそが、ヨーヨーの真の価値なのです。

エピローグ:未来へ回り続けるヨーヨー

現代に生きる私たちへのメッセージ

昭和初期のヨーヨーブームから、私たちは何を学べるでしょうか?

第一に、シンプルなものが持つ普遍的な力です。高度な電子機器がなくても、人は夢中になれる。木の円盤と糸だけで、新聞が「月産500万個」と報じるほどの熱狂が生まれる。

第二に、時代や国境を越えて人をつなぐ遊びの価値です。日比谷公園に数万人が集まり、技を競い合い、喜びを分かち合う。言葉が通じなくても、共通の楽しみでつながれる。

第三に、困難な時代だからこそ求められる「手軽な喜び」の存在です。世界恐慌下の日本で、10銭のヨーヨーが人々の心を明るくしたように、どんな時代にも小さな楽しみは必要なのです。

そして第四に、何度倒れても立ち上がる回復力です。昭和9年に「仇花」のように消えたヨーヨーは、何度も復活しました。その姿は、糸に引かれて戻ってくるヨーヨーそのものです。

終わりに――月産500万個が示したもの

「月産500万個」

この数字は、単なる生産量ではありませんでした。それは、シンプルな玩具が持つ無限の可能性を示す数字でした。人々の心を動かし、社会現象を巻き起こし、90年後の今もなお語り継がれる力を持っていたのです。

ヨーヨーは、重力に引かれて落ちていきます。でも必ず、手元に戻ってきます。この往復運動の中に、人生の縮図を見る人もいるかもしれません。

昭和7年、日比谷公園に数万人が集まって見た光景。昭和8年、新聞が「月産500万個」と報じた熱狂。それらが示した喜びは、今も変わりません。そして、未来の人々の手の中でも、ヨーヨーは回り続けるでしょう。

次にヨーヨーブームがやってくるのはいつでしょうか?それは誰にもわかりません。でも一つだけ確かなことがあります。

ヨーヨーは、何度でも蘇る――それは、重力に逆らって手元に戻ってくるヨーヨーの本質そのものなのです。

最後までお付き合い下さり有難う御座います。

この記事があなたの明日のスパイスとなれば幸いです。

【参考資料】

∙ 日本玩具博物館所蔵資料

∙ 昭和初期の新聞・雑誌記事

∙ 日本ヨーヨー競技会発行冊子

∙ 日本ヨーヨー連盟(JYYF)資料

∙ 当時の生産統計資料

「お腹の中で、すでに人生は始まっていた」—なぜ七五三や厄年は今も”数え年”なのか?日本人の時間感覚のルーツを探る

履歴書を書くとき、病院で問診票に記入するとき、私たちは何の疑問もなく「満年齢」を使います。ところが、神社で七五三の受付をしたり、親戚の法事に参加したりすると、突然「数え年では何歳ですか?」と尋ねられて戸惑った経験はないでしょうか。

数え年とは、生まれた瞬間を「1歳」とし、その後は誕生日ではなく元旦(1月1日)に全員が一斉に年をとるという、不思議な年齢の数え方です。

つまり、12月31日に生まれた赤ちゃんは、翌日の元旦には「2歳」になってしまうのです。

現代の感覚からすれば、なんとも非効率的で曖昧なシステムに思えます。それなのに、なぜ厄年や七五三といった伝統行事の中では、この古い数え方が今なお頑なに守られているのでしょうか。

その答えは、日本人が大切にしてきた独特の「生命観」と「時間感覚」の中に隠されています。

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現代に生きる「2つの年齢」の違和感

履歴書を書くとき、病院で問診票に記入するとき、私たちは何の疑問もなく「満年齢」を使います。ところが、神社で七五三の受付をしたり、親戚の法事に参加したりすると、突然「数え年では何歳ですか?」と尋ねられて戸惑った経験はないでしょうか。

数え年とは、生まれた瞬間を「1歳」とし、その後は誕生日ではなく元旦(1月1日)に全員が一斉に年をとるという、不思議な年齢の数え方です。

つまり、12月31日に生まれた赤ちゃんは、翌日の元旦には「2歳」になってしまうのです。

現代の感覚からすれば、なんとも非効率的で曖昧なシステムに思えます。それなのに、なぜ厄年や七五三といった伝統行事の中では、この古い数え方が今なお頑なに守られているのでしょうか。

その答えは、日本人が大切にしてきた独特の「生命観」と「時間感覚」の中に隠されています。

数え年のルーツ:命は「誕生」ではなく「宿った瞬間」から

お腹の中の10ヶ月を認める慈しみ

西洋的な考え方では、人生は「この世に生まれ出た瞬間」から始まります。

だから「0歳」からスタートするのです。

しかし日本人は古来、もっと前から命を数えていました。それは母親のお腹に宿った瞬間です。

十月十日(とつきとおか)、母の胎内で育まれる時間。その尊い営みを「まだ生まれていないから数えない」のではなく、「すでに生きている」として敬意を持って数えに入れる。

数え年の「生まれた時が1歳」という考え方には、そんな日本人の優しい生命観が息づいているのです。

また、「0(ゼロ)」という概念が庶民に広まったのは比較的新しい時代です。それ以前の日本人にとって、物事の始まりは「1(最初)」であり、命もまた「最初の1」から数えるのが自然だったのでしょう。

「年神様」からもらうお年玉

もう一つ、数え年を理解する上で欠かせないのが「お正月」の持つ意味です。

かつての日本では、誕生日は今ほど重要な日ではありませんでした。それよりも大切だったのは元旦—年神様が各家庭を訪れ、新しい年の魂(活力)を分け与えてくれる特別な日でした。

この「年神様から授かる新しい魂」こそが、現代の「お年玉」の語源です。そう、昔のお年玉はお金ではなく、年神様の魂が宿るとされる「お餅」だったのです。鏡餅を年神様へのお供えとして飾り、それを家族で分け合って食べることで、新しい年の生命力を共有する—これが日本の正月の本質でした。

つまり、年をとるということは個人の記念日ではなく、「共同体全体で新しい季節を迎える更新の儀式」だったのです。だからこそ、みんな一斉に元旦に年をとる数え年のシステムが、当時の日本人の感覚にしっくりきたのでしょう。

画像はイメージです

歴史の転換点:明治35年、政府は「満年齢」を命じた

西洋化への反発

明治時代、急速な近代化を進める日本政府は、西洋に倣って「満年齢」の導入を試みました。明治35年(1902年)に「年齢計算ニ関スル法律」が制定され、公的には満年齢を使うことが推奨されたのです。

ところが、国民の反応は冷ややかでした。

「一人ひとりがバラバラに年をとるなんて、なんだか寂しい」

「お正月に家族みんなで年を祝う風習はどうなるのか」

農耕社会を基盤とした当時の日本では、春夏秋冬という共同体の季節感や、村全体で行う年中行事のリズムが生活の中心でした。個人の誕生日に年をとるという西洋的な時間軸は、そうした暮らしにはなじまなかったのです。

結局、法律で定められたにもかかわらず、庶民の間では数え年が使い続けられました。そして昭和25年(1950年)、ようやく「年齢のとなえ方に関する法律」が施行され、満年齢が正式に普及するまで、実に半世紀近くもの時間がかかったのです。この執念とも言える抵抗は、単なる保守性ではありません。日本人が「時間の数え方」に込めていた精神性の深さを物語っています。

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なぜ「厄年」や「七五三」は数え年なのか?

先回りする先祖の知恵

現代でも数え年が使われる代表的な場面が「厄年」です。

男性の大厄は数え年で42歳、女性は33歳。この厄年を満年齢に換算すると、実際には1〜2年前倒しになります。つまり、「体に異変が起きてから対処する」のではなく、「起きる前に予防する」という先祖の知恵が込められているのです。

人生の節目で心身を律し、神仏に祈りを捧げ、生活を見直す。厄年とは、科学的根拠というよりも、人生の危うい時期を乗り越えるための「心の準備期間」だったのかもしれません。

神様との時間軸を共有する

七五三や厄払い、法要といった神事や祭礼は「ハレ(非日常)」の世界です。そこでは日常の時間ではなく、神様や仏様、ご先祖様と同じ時間の流れを共有することに意味があります。

明治以降に輸入された西洋的な時間軸ではなく、古来から続く「神々の暦」である数え年を使うことで、私たちは無意識のうちに聖なる空間へと足を踏み入れているのです。

だからこそ、神社やお寺では今も数え年が生きている。それは単なる慣習ではなく、「祈りの作法」そのものなのです。

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12月31日生まれの赤ちゃんは「2歳」になる——最短記録の悲喜劇

数え年の極端な例として、よく語られるのが「大晦日の深夜に生まれた赤ちゃん」の話です。

12月31日の午後11時59分に生まれた子は、生まれた瞬間に「1歳」。そして、わずか2分後の元旦午前0時には「2歳」になってしまいます。

現代の感覚からすれば「そんなバカな!」と思わず笑ってしまいますが、この極端な例こそが、数え年の本質を物語っています。

それは、「個人の経過時間」よりも「社会全体の季節感」を重んじる、日本人の大らかな時間感覚です。一人ひとりの細かな違いよりも、みんなで同じ節目を祝い、共に年を重ねていくことの方が大切だった—そんな価値観が透けて見えてきます。

画像はイメージです

時間を「積む」のではなく「迎える」

2つの年齢が教えてくれること

満年齢は「経過した時間(過去)」をカウントします。「私は何年生きたか」という個人の履歴です。

一方、数え年は「新しく迎える年(未来)」をカウントします。「私たちは今年、何年目を生きるか」という共同体の展望です。

どちらが正しいということではありません。ただ、両方の時間軸を持つことで、私たちはより豊かに人生を捉えることができるのではないでしょうか。

先祖が見ていた景色を共有する

七五三で神社を訪れたとき、厄年にお祓いを受けるとき、あるいは亡くなった祖父母の法要で数え年を聞かれたとき—。

私たちは無意識に、先祖が見ていた景色を共有しています。

お正月にみんなで一斉に年をとる感覚。年神様を迎えて新しい魂をいただく喜び。お腹の中の命も、この世に生まれた命も、同じように尊く数える優しさ。

それは効率や論理では測れない、日本人の時間に対する感性そのものです。

忙しい現代だからこそ、誕生日に1つ増える「点」の年齢だけでなく、元旦にみんなで新しくなる「線」の時間を大切にしてみませんか?

数え年という古い数え方の中に、私たちが忘れかけていた「ゆっくりと、みんなで、共に生きる」という豊かさが、静かに息づいているのかもしれません。​​​​​​​​​​​​​​​​

-終わり-

最後までお付き合いくださり有難う御座います。

この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。

【KFC創業者カーネル・サンダースの真実】65歳から全米営業で逆転成功──11種のスパイス誕生と波乱の生涯を徹底解説

今回は、世界中で愛されるフライドチキンチェーン
KFC(ケンタッキー・フライド・チキン)の創業者、あの白いスーツのおじさん――
ハーランド・デーヴィッド・サンダースの実像に迫ります。
店頭で穏やかにほほ笑む“カーネルおじさん”。
ケンタッキーが大好きな私…あの像が家にあったら…という夢はさておき、彼がどれほど波乱万丈の人生を歩み、いかにして世界的ブランドを築いたのか。史実に基づいて、楽しく、確かな情報で見ていきましょう。

1950年代のアメリカンダイナーをイメージしたAI生成画像

こんにちは、retro-flaminngoへようこそ。

今回は、世界中で愛されるフライドチキンチェーン
KFC(ケンタッキー・フライド・チキン)の創業者、あの白いスーツのおじさん――
ハーランド・デーヴィッド・サンダースの実像に迫ります。

店頭で穏やかにほほ笑むカーネルおじさん

ケンタッキーが大好きな私あの像が家にあったらという夢はさておき、彼がどれほど波乱万丈の人生を歩み、いかにして世界的ブランドを築いたのか。史実に基づいて、楽しく、確かな情報で見ていきましょう。


「カーネル」は名前ではなかった

まず意外な事実から。

「カーネル(Colonel)」は軍階級の大佐を意味しますが、サンダースは職業軍人ではありません。この称号は、ケンタッキー州への貢献者に与えられる名誉称号「ケンタッキー・カーネル(Kentucky Colonel)」です。

1935年、当時のケンタッキー州知事ルビー・ラフォン(Ruby Laffoon)からこの称号を授与されました。つまりカーネルは芸名でもあだ名でもなく、正式な名誉称号なのです。

私たちが親しみを込めて呼ぶ「カーネルおじさん」は、州公認の称号を持つ実業家だったのです。


苦労の少年時代──料理との出会い

サンダースは189099日、アメリカ・インディアナ州に生まれました。

6歳の時に父を亡くし、母は働きに出ます。幼いサンダースは弟妹の面倒を見ながら料理を担当するようになりました。皮肉にも、このやむを得ない家事が後の人生を決定づけます。

10歳で農場労働。14歳で学校を中退。
16歳で年齢を偽り陸軍に入隊(キューバ勤務の短期兵役)。

その後の職歴は圧巻です。

・鉄道機関車の助手
・ボイラー技師
・保険外交員
・フェリーボート経営
・タイヤ販売
・法律事務所の書記
など、確認されているだけで40種近い職業を経験しています。

現代では「転職が多い」と言われるかもしれません。しかし当時のアメリカは激動の時代。産業化と大恐慌を挟む社会で、多くの人が職を変えながら生き抜いていました。

サンダースは落ち着かなかった人物というより、挑戦をやめなかった人物と表現するほうが正確でしょう。


40歳からの挑戦──ガソリンスタンド経営

1930年、40歳になったサンダースはケンタッキー州コービンでガソリンスタンドを経営します。

ここが転機でした。

彼は給油に立ち寄る客に自家製の料理を振る舞います。ダイニングスペースを設け、「サンダース・カフェ」として本格営業を開始。

看板メニューはフライドチキンでした。

当時のフライドチキンは調理に30分以上かかるのが普通。そこで彼は1939年、圧力鍋を改良し、短時間でジューシーに仕上げる独自製法を確立します。

そして生まれたのが、11種類のハーブとスパイスを使う「オリジナル・レシピ」。

このレシピは現在も企業秘密として厳重に管理され、2社に分けて調合されているとされています。


65歳、全財産をかけた再出発

順風満帆に見えた経営ですが、1950年代、高速道路の開通により交通ルートが変わり、サンダースの店は客足を失います。

店は閉鎖。彼は65歳。

普通なら引退を考える年齢です。

しかし彼は違いました。

圧力鍋とレシピを車に積み込み、アメリカ各地を回ってフランチャイズ契約を売り込む営業の旅に出ますが、そこでの反応はなかなか厳しいものでした、断られた回数は1000回以上とも言われています。

しかしそれでも彼は諦めませんでした。

やがて少しずつ契約が広がり、フランチャイズ網が急速に拡大。1964年、74歳で会社を約200万ドルで売却(現在価値で数十億円規模)。ただし彼はブランドの顔として活動を続けました。

白いスーツ、黒いリボン、山羊髭。
あの姿は、晩年のセルフプロデュースの成果でもあります。


世界ブランドへ

現在、KFCは世界150か国以上で展開され、日本でもクリスマスの定番文化として根付いています。

日本法人の創業は1970年の大阪万博出店がきっかけ。そこから独自の発展を遂げました。

49歳で開発されたオリジナルチキンは、90年以上の人生を生きた創業者の後半戦の成果です。

成功は若さだけの特権ではない。
サンダースの人生は、それを雄弁に物語っています。


カーネルおじさんが教えてくれること

・苦労の少年時代
・数えきれない転職
・事業の失敗
・高齢からの再挑戦

彼の人生は、一直線の成功物語ではありません。

むしろ、遠回りの連続です。

しかしそのすべてが、後の成功の味付けになった。

もし彼が安定した人生だけを歩んでいたら、あの11種のスパイスは生まれなかったかもしれません。

店頭で微笑む像は、単なるマスコットではありません。
挑戦をやめなかった実業家の象徴です。


時々無性に食べたくなるあの味。

それは単なるファストフードではなく、
65歳から人生を再構築した男の物語でもあります。

今日、チキンを頬張るとき。
少しだけ思い出してみてください。

白いスーツの老人が、車で全米を回りながら営業していた姿を

さて今夜のディナーはケンタッキーにするとしましょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました、この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです

古き良きアメリカの時代をリンクする記事はこちら‼️


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ご回答をありがとうございました。 ✨

【五右衛門風呂の歴史と日本のお風呂文化】

子どもの頃、私の家のお風呂は五右衛門風呂でした。
今のようにボタン一つでお湯が張られる時代ではありません。大きな鉄の釜に水を張り、下から薪をくべて火を焚きます。パチパチと爆ぜる薪の音、立ちのぼる煙の匂い、そして釜の縁からゆらゆらと立ち上る湯気──その情景はいまも鮮明に思い出せます。
入る前には必ず湯加減を確かめました。丸い木の底板をそっと浮かべ、それを足で押さえながら、しゃがむように体を沈めていきます。鉄の側面は焼けるほど熱く、うっかり触れれば火傷をしてしまう。だから家族は一人ずつ順番に入るのが決まりでした。

 

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万屋(よろずや)――あの角を曲がれば、暮らしがあった

あのころ、町の一角には必ずといっていいほど小さな店がありました。引き戸を開けると、わずかに甘い匂いと石鹸の匂いが混ざり合い、棚には駄菓子から日用品までが肩を寄せ合って並んでいる。私も子どもの頃、隣のその店へ毎日のように通い、わずかな小銭を握りしめてチロルチョコを買ったものです。種類は今ほど多くはありませんでした。それでも不思議と「足りない」と思ったことはない。なぜなら、その店には“暮らしに必要なもの”がきちんと揃っていたからです。
それが、万屋―「よろずや」と呼ばれる存在でした。

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感想(1件)

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あのころ、町の一角には必ずといっていいほど小さな店がありました。引き戸を開けると、わずかに甘い匂いと石鹸の匂いが混ざり合い、棚には駄菓子から日用品までが肩を寄せ合って並んでいる。私も子どもの頃、隣のその店へ毎日のように通い、わずかな小銭を握りしめてチロルチョコを買ったものです。種類は今ほど多くはありませんでした。それでも不思議と「足りない」と思ったことはない。なぜなら、その店には暮らしに必要なものがきちんと揃っていたからです。

それが、万屋「よろずや」と呼ばれる存在でした。

「よろず」とは漢字で書けば「万」。あらゆるもの、という意味を持ちます。文字通り、何でも扱う店。専門店が成立しにくい地域では、食料品も雑貨も文房具も、ときには農具や工具までも並びました。都市部では日用雑貨中心の小さな店が多かったものの、地方へ行けば生鮮食品から履物まで揃う、まさに暮らしのオールインワンが当たり前の光景でした。沖縄では「マチヤー」とも呼ばれ、地域によって名前は違えど、その役割はどこも同じ。生活の隙間を埋める、頼れる存在だったのです。

万屋の本当の価値は、品揃えの広さだけではありませんでした。そこには、時間が流れていました。買い物に来た近所の人が世間話を交わし、店主が子どもに「今日は何にする?」と声をかける。お釣りを受け取る手のぬくもりと、ガラスケース越しに選ぶ駄菓子の高揚感。あれは単なる消費行動ではなく、日常という物語の一場面だったのです。

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人口の少ない地域では需要が限られ、食料品店や雑貨店といった専門店は成り立ちにくい状況にありました。だからこそ万屋は重宝された。急に電球が切れた夜も、醤油を切らした夕方も、「あそこへ行けば何とかなる」という安心感があった。万屋とは、地域の生活インフラであり、同時に人と人を結ぶ結節点でもあったのです。

しかし時代は移りました。1970年代以降、コンビニエンスストアが全国に広がり、24時間営業という圧倒的な利便性が人々の生活を変えていきます。さらに郊外には大型ショッピングモールが建ち並び、駐車場完備、冷暖房完備、アミューズメントまで揃う空間が週末の目的地になりました。効率的な物流システム、大量仕入れによる価格競争力。こうした波のなかで、小規模な万屋は徐々に姿を消していきました。

私の地元でも、子どもの頃にあったあの店は、いつの間にか閉まったままになりました。看板は色褪せ、シャッターは下りたまま。代わりに道路沿いにはコンビニの明るい看板が立ち、休日には大型モールへ人が流れる。便利さは格段に増しました。欲しいものはすぐ手に入る。けれども、あの引き戸を開けたときの空気や、店主との何気ない会話までは手に入らない。

万屋が消えたことは、単なる商店の減少ではありません。それは、地域の小さな物語の消失でもあります。子どもが大人に見守られながら社会を学ぶ場所、顔の見える関係が育つ空間、素朴ながらも温かな営みが重なり合う風景。その一角が、静かに塗り替えられていったのです。

それでも時折、昔ながらの駄菓子屋を訪れると胸がざわめきます。大人になった今でも、あの響き「よろず」という言葉がどこか柔らかく、豊かに聞こえるのはなぜでしょうか。それはきっと、何でもあるという物質的な意味以上に、何でも受け止めてくれるという精神を感じるからかもしれません。

万屋は、時代の波に押されて数を減らしました。しかしその精神は、私たちの記憶のなかに今も息づいています。便利さが正義とされる現代にあって、ふと立ち止まりたくなる瞬間があるならそれはきっと、あの小さな店先で感じた温もりを、心がまだ覚えているからなのでしょう。

終わり

最後までお付き合い下さり有難う御座います、この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。

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感想(1件)

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ご回答をありがとうございました。 ✨

「キューピー誕生の真実|100年以上愛される赤ちゃん天使の知られざる歴史と驚異の成功物語」

今回はもはや知らない人はいないであろう、あの可愛らしい赤ちゃん天使キャラクター、**キューピー(Kewpie)** ちゃんを取り上げてみたいと思います。ʕʘ̅͜ʘ̅ʔ

キューピーマヨネーズでお馴染みのキューピーちゃんですが、今やあらゆるコスチュームを身にまとい広範に存在し、今もって尚、皆に愛され続けていますよね。ご当地キューピーなどは全て集めてみたいものです〜。もう集めたって言う方もいらっしゃるのでは⁉️

“Give Mother the Vote, We Need It,” poster by Rose O’Neill, c. 1915 1 January 1915 著者NAWSA This work is in the public domainin the United States because it was published (or registered with the U.S. Copyright Office) before January 1, 1931. Wikimedia commmons

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