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昭和の映画絵看板 看板絵師たちのアートワーク (TWO VIRGINS)
夕暮れの商店街を、君は歩いている。
まだ携帯電話もインターネットもなかった頃の話だ。
駅前を抜けると、遠くからでも目に入る巨大な絵がある。
俳優の顔は建物ほど大きく、ヒロインの瞳は本物以上に輝き、怪獣映画なら今にも街へ襲い掛かってきそうな迫力で、空を覆っている。
それは映画館の壁に掲げられた、一枚の絵看板だ。
写真ではない。
印刷物でもない。
人の手が、絵筆一本で描き上げたものだった。
その絵を描いていたのは「映画看板絵師」と呼ばれる人々だ。

彼らはただの看板屋ではなかった。
映画の世界観を街に解き放つ演出家であり、映画館と観客を結ぶ、最後の芸術家だった。
けれど今、その姿はほとんど消えてしまった。
なぜ、彼らは街から消えたのだろう。
その答えを探るには、まず彼らがどんな手で、どんな時間を費やして、あの巨大な絵を仕上げていたかを知らなければならない。
想像してみてほしい。
板に貼られた、新聞紙よりも薄いざら紙。
絵師はそこに、小さな宣伝写真をプロジェクターで投射する。
輪郭をマジックペンでなぞる。鉛筆では擦れて消えてしまうからだ。
あるいは、写真に碁盤の目のような細かいマス目を引き、看板の側にも同じ数のマス目を拡大して描き、一マスごとに模写していく職人もいた。
看板の大きさはまちまちで、幅二メートルから五メートルを超えるものまである。
だから写真の構図をそのまま大きくするだけでは済まない。
どこを誇張し、どこを抑えるか。
遠くから見上げたときに、人物の表情が立体的に浮き上がるように、絶妙な甘さと荒さを絵筆に乗せていく。

速乾性のアクリル絵の具は、色を重ねる時間をくれない。
顔を描く最初の十五分が勝負だと、ある絵師は語っている。
一枚を仕上げるのに、早ければ二、三時間。手間をかければ一日半。
それでも締め切りに遅れることは、決して許されなかった。
不思議なことに、写真ほど正確ではないその絵に、人々は強く惹かれた。
理由は単純だ。
人の手が生む誇張があったからだ。

絵には筆跡がある。
勢いがある。
描いた人間の感情が、そこに宿っている。
完璧な印刷物には決して宿らない熱が、看板にはあった。
巨大な絵を見上げたとき、人々は広告を見ていたのではない。
ひとつの作品を見ていたのだ。
しかも、映画館ごとに看板は違っていた。
同じ映画でも、東京の劇場と大阪の劇場、地方都市の劇場では、まったく異なる一枚が掲げられることも珍しくなかった。
映画館そのものに、顔があったのだ。
専属の絵師を抱える劇場も多く、観客は上映作品だけでなく「今週はどんな絵が掛かっているだろう」という楽しみを抱いて、劇場の前を通ったという。
時代を少し遡ろう。
日本の映画興行は、大阪・ミナミから始まったといわれている。
観客数が頂点を迎えたのは1958年、昭和33年。
その年、日本全国の映画館を訪れた人の数は、実に11億人を超えた。
当時、全国には7000を超える映画館があったとされる。
街という街に、映画館があり、看板があり、絵師がいた。
ヤクザ映画の看板に高倉健の顔を描き続けたある絵師は、こう振り返っている。
人気のあるスターの映画になると、立ち見も含めて650人ほどしか入れない劇場に1700人もの客が詰めかけ、観客同士で揉めることもあったという。
絵師自身もそのスターの大ファンで、夢中になって筆を走らせたと語っている。
雨の日も、真夏の炎天下も、高所作業の危険と隣り合わせで。
しかし、看板に絵師の名前が記されることは、ほとんどなかった。
作品だけが街に残り、描いた者の名は知られない。
祭りの山車職人や、寺社の彫刻師のような存在だったのかもしれない。
その全盛期に、静かに罅が入り始める。
1960年代以降、テレビの普及とともに観客数は減り続けていく。
そして1993年、神奈川県海老名市に、日本初のシネマコンプレックスが誕生する。
郊外の大型商業施設に併設された、効率化された映画館。
統一された広告デザイン。
全国どこでも変わらない、同じ映画館の体験。
そこに、絵師ひとりひとりの個性が入り込む余地は、なかった。
時を同じくして、大型インクジェットプリンターが普及し、巨大な写真ポスターを安価に、短時間で量産できるようになる。
絵師が二日かけて仕上げる一枚を、印刷機はわずかな時間で再現してしまう。
映画会社にとっては、当然の選択だっただろう。
早い。安い。狂いがない。
こうして、手描きの看板を発注する劇場は、年々その数を減らしていった。
街の小さな映画館も、一つ、また一つと灯を消していく。
専属の絵師を抱えていた劇場が次々と閉館し、定期的な仕事そのものが、絵師の手から離れていった。
それでも、筆を置かなかった人たちがいた。
なぜだろう。

それは、彼らが看板を描いていたのではなく、映画館という文化そのものを描いていたからだ。
大阪で、ただ一人になったと語る絵師は、今も新世界の劇場のために筆を握り続けている。
毎週、上映作品が替わるたびに、自信作の上にまた新しい紙を貼り、描き直す。
「惜しいな」と思うこともあると、彼は笑って言う。
水戸で六十年近く絵筆を握り続けたある絵師は、毎日描き続けても、本当に満足できる一枚は年に一、二枚しかなかったと振り返っている。
ほとんど仕上げた看板に、自分で大きく×印をつけて描き直すことも、日常茶飯事だったという。
東京で一つの時代を支えた絵師は、『スター・ウォーズ』の看板を初めての仕事として手がけ、その後も数々の超大作を描き続けた。
その劇場が「聖地」と呼ばれるようになったのは、看板を見上げた人々の記憶が、そこに積み重なっていったからだろう。
彼らにとって、看板とは広告ではなかった。
映画への愛情であり、観客への招待状であり、街に灯る文化の明かりだった。
ここで、一つの問いが浮かぶ。
本当に消えたのは、映画看板絵師だったのだろうか。
もしかすると消えたのは、映画を楽しみに「待つ」という時間そのものだったのかもしれない。
昔、人々は巨大な看板を見上げながら、公開日を待った。
劇場の前を通るたびに、胸を躍らせた。
情報が少なかったからこそ、想像力が膨らんだ。
しかし今は、予告編もレビューもSNSもある。
映画を観る前に、映画のすべてを知り尽くしてしまう時代だ。
手描きの看板が担っていた「想像の余白」は、もう必要とされなくなった。
絵師が消えたというより、彼らが活躍できる文化のほうが、先に消えてしまったのかもしれない。
夕暮れの商店街。
映画館の屋上。
風に揺れる、巨大な手描きの絵。
そこには、映画の宣伝以上の意味があった。
街の誇り。
子供たちの憧れ。
恋人たちの待ち合わせ場所。
家族で過ごした、何でもない休日。
人々の思い出が、看板の下にずっと積み重なっていた。
映画看板絵師の姿が消えた今、街は少し便利になった。
少し効率的になった。
けれど同時に、私たちは少しだけ、夢を見る力を失ったのかもしれない。
あの巨大な手描きの絵は、映画を描いていたのではない。
私たちが生きた時代そのものを、描いていたのだ。
The end
最後までお付き合い下さり有難う御座います、この記事があなたの明日を少しだけ彩るスパイスとなれば嬉しいです。
Thank you for reading to the end. I hope this article adds a little spice to your day tomorrow.
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