スポンサーリンク

写真提供:Wikimedia Commons(フリー画像・各画像のライセンス条件に基づき使用)
■ 階段を上って下りるのに、誰ともすれ違わないお堂
福島県会津若松市、飯盛山。白虎隊ゆかりの地として知られるこの山の中腹に、ひとつの奇妙な木造建築が建っています。
六角形の塔のような外観。けれど、一歩中に入ると印象は一変します。足元の通路は緩やかな傾斜を描きながら、ぐるぐると上へ、上へと続いていく。やがて頂上近くに達したかと思えば、今度は別の通路を通って下へ。上る人と下る人が同じ道を通らないため、すれ違うことなく参拝できるのだといいます。
薄暗い木の通路を、ただ前へ進むしかない。来た道を引き返すこともない。その感覚は、どこか迷路に迷い込んだときの、あの小さな不安にも似ています。
この建物の正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」。一般には「会津さざえ堂」と呼ばれています。建立は寛政8年(1796年)。江戸時代後期に、正宗寺の僧・郁堂によって建てられたと伝えられています。
ここで、ひとつの疑問が浮かびます。なぜ、わざわざこれほど複雑な構造のお堂を造る必要があったのか。単に珍しい建物を造りたかっただけなのか。それとも、遠い土地への巡礼をあきらめていた人々の願いが、この形になったのか。
その答えを探るために、まずは江戸時代の人々にとって「巡礼」がどのような旅だったのかを、たどっていきます。
ウッディジョー 1/75 会津さざえ堂 (円通三匝堂・えんつうさんそうどう) 木製模型 組み立てキット
■ 遠くの観音様に会いに行くことは、簡単ではなかった
江戸時代、寺社参詣や巡礼は、庶民の信仰と娯楽を兼ねた旅として広がっていました。けれど、誰もが自由に長旅へ出られたわけではありません。
たとえば西国三十三所は、近畿地方を中心に点在する三十三の観音霊場を巡る巡礼です。徒歩が中心の旅には、日数はもちろん、宿泊費や食費、道中の危険、そして家業を離れる負担がのしかかりました。
家族を養い、田畑を耕し、店を切り盛りする人々にとって、長期間の巡礼は憧れであると同時に、容易には叶わない願いでもあったはずです。
そこで注目したいのが、実際の霊場へ出かける旅とは別に、寺院の境内などで巡礼を体験できる仕組みが各地につくられてきたことです。会津さざえ堂も、その発想を「建築」という形で実現した存在でした。
ただし、当時の人々が全員このお堂を「西国巡礼の完全な代わり」と考えていた、とまでは言い切れません。建立の背景、観音信仰、当時の巡礼文化――それぞれを区別しながら、史料で確認できる範囲で見ていく必要があります。

写真提供:Wikimedia Commons(フリー画像・各画像のライセンス条件に基づき使用)
■ 堂の内部に隠された、二重螺旋の仕掛け
会津さざえ堂の最大の特徴は、「二重螺旋構造」と呼ばれる特殊な通路にあります。
高さは約16.5メートル、六角三層の建物。その内部には上りの通路と下りの通路が別々に設けられ、参拝者は一方通行で堂内を巡ることができました。
普通の建物なら、上った階段をそのまま下りるため、同じ場所を往復することになります。ところが、さざえ堂では、上りの通路を進んだ人は、別の下りの通路を通って出口へ向かう。限られた建物の内部に、交わらない二つの移動経路が組み込まれているのです。
現代の目で見れば、これは人の流れを整理する「動線設計」にも通じます。参拝者がスムーズに移動しながら、安置された観音像を順に拝める。信仰上の目的と建築上の工夫が、ひとつに溶け合っている。そこが、このお堂のいちばん面白いところでしょう。
しかも床は階段ではなく、緩やかな傾斜の通路です。一般的な階段とは違う感覚で、身体が自然と上へ導かれていきます。
もちろん、現代の建築基準や構造計算の考え方を、そのまま江戸時代に当てはめることはできません。大切なのは、当時の木造建築の技術が、この複雑な構造をどのように実現したのか、という視点です。


写真提供:Wikimedia Commons(フリー画像・各画像のライセンス条件に基づき使用)
■ なぜ「さざえ堂」と呼ばれるようになったのか
「円通三匝堂」という正式名称だけを見ると、少し難しい印象を受けます。「三匝」は、三度めぐるという意味合いの言葉とされます。
一方で「さざえ堂」という呼び名には、親しみやすさがあります。巻き貝のサザエを思わせる、堂内を巡る螺旋状の構造や外観から、この通称が定着したと考えられています。
寺院建築といえば、仏像を安置する本堂や、仏塔を思い浮かべる人が多いでしょう。けれど、さざえ堂は違います。建物そのものが、参拝という体験を生み出す装置になっているのです。
見るための建築ではなく、歩いて巡ることで意味が完成する建築。その独自性が、二百年以上たった今も人々を引きつけているのではないでしょうか。
■ 日本各地にあった、もうひとつの「さざえ堂」の歴史
調べていくと、同じように観音巡礼と結びついた建築が、ほかの地域にも存在することがわかります。江戸の本所にあった五百羅漢寺のさざえ堂が、葛飾北斎の絵に描かれるほどの名所だったことも知られています。ここでは、現在も見られる代表的な建物をいくつか挙げてみましょう。
・曹源寺さざえ堂(群馬県太田市)
観音信仰と結びついた代表的なさざえ堂のひとつ。会津とは異なる巡礼の形を示す建物として知られています。
・長禅寺三世堂(茨城県取手市)
「三世堂」の名で知られ、内部を巡りながら観音像を参拝する構造を持つとされます。外観からはわからない、内部の階層構成に注目したい建物です。
・成身院百体観音堂(埼玉県本庄市)
秩父・坂東・西国の観音霊場に対応する百体観音を祀る堂として知られます。現存する建物は、江戸時代の創建当時そのままではないとされており、混同しないことが重要です。
・蘭庭院の栄螺堂(青森県弘前市)
東北地方におけるさざえ堂系建築の広がりを考えるときに外せない事例です。会津だけが特別だったのではなく、各地の信仰と地域社会のなかで、似た発想が受け入れられていったことがうかがえます。
ただし、これらをすべて会津さざえ堂と同じ構造だと決めつけるのは禁物です。「さざえ堂」という呼び名でまとめられていても、建物ごとに、内部の通路構造、安置される仏像、参拝の方法、建立の年代は異なります。二重螺旋構造を持つ建物と、複数階を巡って観音像を拝む建物は、区別して見る必要があります。
「全国にあった」とは言っても、全国のすべての堂が同じ仕組みだったわけではない。その違いのなかにこそ、この建築が各地で愛された理由が隠れているのかもしれません。
■ さざえ堂の発想は、海を越えてきたのか
ここで、ひとつ不思議な比較対象が浮かびます。フランス、ロワール地方にあるシャンボール城の二重螺旋階段です。
こちらも、上る人と下る人が別々の螺旋を進める構造として知られています。レオナルド・ダ・ヴィンチとの関連が語られることもあります。
では、江戸時代の日本で生まれたさざえ堂は、ヨーロッパの建築思想を取り入れたものだったのでしょうか。
江戸時代には、海外の書物や図版を通じて、西洋の知識が日本へ伝わる経路が存在していました。蘭学や洋書の流通を調べれば、当時の日本人がどのような海外の知識に触れ得たのかを考えることはできます。
しかし、二つの建築が似ているからといって、直接の影響関係が証明されるわけではありません。「西洋から伝わった」という結論を先に置くことはできず、類似点、当時の知識流通、設計者に関する史料の有無を、ひとつずつ分けて検討する必要があります。
むしろ本当に興味深いのは、遠く離れた異なる文化圏で、人がすれ違わずに移動できる構造や、限られた空間を効率よく使う工夫が、それぞれに生まれたという事実そのものではないでしょうか。
■ なぜ江戸の日本で、こうした建築が生まれたのか
ここからは、さざえ堂を単なる珍しい建物ではなく、江戸時代の社会を映す存在として見てみます。
当時は木造建築の技術が積み重ねられ、寺社や町家など、多様な建築が各地で造られていました。さらに、庶民のあいだで信仰や寺社参詣が広まるなか、人々が信仰に参加しやすくなる仕組みも求められていたはずです。
さざえ堂には、そうした社会の気配を読み取る余地があります。ひとつは、巡礼の負担を軽くするという発想。もうひとつは、限られた土地と建物の中に、多くの参拝者を受け入れる工夫です。
そこには、信仰を守るだけでなく、参拝する人の立場から仕組みを考える視点があったのではないでしょうか。
もちろん、現代的な意味での効率化やバリアフリーを目的に設計された、と断定することはできません。それでも、信仰と実用性を結びつけた建築として眺めたとき、江戸の人々の創意工夫が、静かに浮かび上がってきます。
■ 明治を越えて残ったもの、失われたもの
会津さざえ堂の歴史を考えるうえで、建立当時の姿と現在の姿の違いは欠かせません。
かつて堂内に安置されていた西国三十三観音像は、明治初期の廃仏毀釈などを経て、現在は当時の形では堂内に残されていません。つまり、いま私たちが体験しているのは、江戸時代の建築構造が受け継がれた空間であって、建立当初の信仰の風景がそのまま保存されているわけではないのです。
観音像が並び、参拝者が一体ずつ手を合わせていた時代。人々の足音や祈りが満ちていたであろう堂内は、今とはまったく違う空気だったはずです。
建物を残すことと、建物が本来持っていた役割を残すこと。この二つは、同じようでいて、同じではありません。
それでも、通路を歩くという体験を通じて、かつての参拝者の行動を想像することはできます。建築は、失われた文化を完全に再現することはできなくても、過去の人々の考え方を読み解く手がかりにはなるのです。
■ 結び:さざえ堂は、建築で人々の願いをかなえようとした場所だった
薄暗い通路を一歩ずつ進む参拝者の姿を、思い浮かべてみてください。
遠くの観音霊場へ行きたくても、旅に出られない人がいた。家族や仕事を離れられない人もいた。そうした人々にとって、身近な場所で観音巡礼を体験できることには、大きな意味があったのかもしれません。
さざえ堂は、ただ奇抜な形をした建物ではありません。信仰を空間に組み込み、歩くという行為そのものを参拝へと変えた建築です。二重螺旋という構造の面白さに目を奪われがちですが、その奥には、遠くへ行けない人にも祈りの機会を届けようとした、江戸時代の人々の知恵が見えてきます。
現代では、旅も情報も、以前よりずっと簡単に手に入るようになりました。それでも、時間や距離の制約によって、望んだことを実現できない人はいます。
だからこそ、さざえ堂の歴史は、今も静かに問いかけられてきます。
「遠くへ行けない人の願いを、身近な場所でかなえることはできないだろうか」
その問いに、江戸時代の職人と僧侶たちは、建築という形でひとつの答えを示したのかもしれません。
The end
最後までお付き合い下さり有難う御座います、この記事があなたの明日を少しだけ彩るスパイスとなれば嬉しいです。
Thank you for reading to the end. I hope this article adds a little spice to your day tomorrow.
スポンサーリンク