地下都市デリンクユ――何万人も暮らせたという説明は正確なのか

トルコ中央部、カッパドキア地方。奇岩が連なる大地の下には、地上からは想像もできない空間が広がっている。
1963年、デリンクユの町で民家を改修していた住民が、壁の向こうに隠された空間を見つけたと伝えられている。調べていくと、通路や部屋が次々とつながり、地下深くへ続く巨大な地下都市が姿を現した。
そこには住居だけでなく、貯蔵室、家畜小屋、厨房、礼拝施設、井戸や換気設備までそろっていた。巨大な円形の石を転がして通路を塞ぐ仕組みもある。ここが単なる洞窟ではなく、「暮らすための空間」だったことを、その構造は静かに物語っている。
そして、デリンクユを紹介する記事には、しばしばこんな数字が登場する。「最大2万人が避難できた」。
本当に2万人もの人間が、家畜や食料とともに地下で生活できたのだろうか。
地下に多数の部屋があることと、何万人もの人々が同時に暮らせることは、同じではない。この疑問を出発点に、地下都市の実像を探っていきたい。

スポンサーリンク

AIイメージ

デリンクユ小史:岩を掘り抜いて築かれた巨大地下都市

民家の壁の向こうに、もう一つの世界があった

トルコ中央部、カッパドキア地方。奇岩が連なる大地の下には、地上からは想像もできない空間が広がっている。

1963年、デリンクユの町で民家を改修していた住民が、壁の向こうに隠された空間を見つけたと伝えられている。調べていくと、通路や部屋が次々とつながり、地下深くへ続く巨大な地下都市が姿を現した。

そこには住居だけでなく、貯蔵室、家畜小屋、厨房、礼拝施設、井戸や換気設備までそろっていた。巨大な円形の石を転がして通路を塞ぐ仕組みもある。ここが単なる洞窟ではなく、「暮らすための空間」だったことを、その構造は静かに物語っている。

そして、デリンクユを紹介する記事には、しばしばこんな数字が登場する。「最大2万人が避難できた」。

本当に2万人もの人間が、家畜や食料とともに地下で生活できたのだろうか。

地下に多数の部屋があることと、何万人もの人々が同時に暮らせることは、同じではない。この疑問を出発点に、地下都市の実像を探っていきたい。

AIイメージ

地上の町の下に広がる地下構造

デリンクユ地下都市は、トルコのネヴシェヒル県に位置している。カッパドキア一帯には、火山活動によって生まれた凝灰岩が広く分布する。この岩は比較的やわらかく、掘削によって部屋や通路をつくることができた。

しかも、地下に空間をつくれば、地上に建物を建てる場合にはない利点が生まれる。外敵から見つかりにくく、外気温の影響も受けにくい。入口を閉ざせば、外部からの侵入を防ぐこともできる。

2016年に発表された工学系の研究論文も、デリンクユの特徴として、居住空間、倉庫、宗教施設、井戸、換気設備、家畜小屋などが組み合わさった地下施設の構造を挙げている。

ここで押さえておきたいのは、地下都市が単一の目的のためだけに造られたとは限らないということだ。ふだんは生活や貯蔵の場として使われた空間が、危険が迫ったときには避難場所としても機能した。そうした重なりを想像する余地がある。

いつ、誰が造ったのか――建設年代を断定できない理由

デリンクユの起源の説明には、慎重さが求められる。

一般向けの解説では、紀元前8〜7世紀ごろのフリギア人に起源を求める説や、さらに古い時代にさかのぼる可能性が紹介されることがある。しかし、現在見られる地下都市の全体がその時代に完成していたと確定しているわけではない。

地上の建築物と違い、地下空間は、掘られた岩そのものから年代を直接特定することが難しい。古い空間を後世の人々が拡張し、別の用途に転用することもできるからだ。

そこで、時間軸を次のように整理して考えてみたい。

・古代:この地域で地下空間が使われ始めた時期。ただし、特定の民族や年代に断定はできない。
・ローマ時代からビザンツ時代:地下空間が拡張され、利用されていった時期。キリスト教徒の生活や宗教施設との関わりが注目される。
・8〜12世紀ごろ:ビザンツ帝国とイスラム勢力の抗争が続いた時代。地域社会にとって、地下施設が避難場所として重要だった可能性がある。
・20世紀:1963年に再発見され、観光・文化遺産として調査と公開が進んだ。

この年表は、建設の開始から完成までを確定したものではない。各時代の利用や拡張を考えるための、あくまで枠組みである。

AIイメージ

地下で暮らすための設備――単なる隠れ場所ではなかった

デリンクユの実像に近づくには、地下にどんな設備があったのかを確かめる必要がある。

トルコ文化観光省の施設案内では、家畜小屋、貯蔵室、食事のための空間、教会、糖蜜を煮る場所などが紹介されている。2階部分には宣教学校があったとされ、地上とつながる深さ約55メートルの換気・井戸のシャフトも重要な構造として挙げられる。

こうした設備は、それぞれが地下生活の問題を一つずつ解いていたと見ることができる。

食料の保管は、地上に出られない状況を乗り切るための要だった。家畜小屋は、人間だけでなく家畜も避難させる場合の備えである。厨房や共同利用の空間があったことは、多数の人々が食事をつくり、分け合う共同生活の姿を思わせる。礼拝施設は、閉ざされた地下で人々の心を支える役割を担ったのかもしれない。

なかでも換気と水は、地下都市の規模を考えるうえで欠かせない。部屋を掘ることはできても、十分な空気と水がなければ、長い期間にわたって人が暮らすことは難しい。呼吸、調理、火の使用のすべてが、空気に左右されるからだ。

ただし、設備が存在するという事実だけで、数千人、あるいは数万人が何か月も暮らせたと断定することはできない。設備の規模、実際に稼働していたかどうか、利用した人数、物資を補給できる条件。これらは分けて考える必要がある。

AIイメージ

なぜ地下都市は避難施設になったのか

デリンクユの防御機能を考えるとき、まず目を引くのが、通路を塞ぐ円形の石扉である。

トルコ文化観光省の解説によれば、地下都市には入口を閉鎖するための大きな石の円盤が設けられていた。通路には、人が一人通れるほどの狭い部分もあり、侵入者の動きを妨げる構造になっていた。

これらは、地下空間が身を隠すだけでなく、外部からの侵入を防ぐ目的でも使われたことを示している。

とくに8〜12世紀ごろは、ビザンツ帝国とイスラム勢力の抗争が続いた時代だった。地域のキリスト教徒が危険を避けるために地下空間を利用したという説明には、こうした歴史的背景がある。

ただし、現在見られるすべての設備が特定の戦争のために造られた、と単純化してはならない。「迫害から逃れるため」だけに用途を限定するのも早計だろう。戦乱への備え、食料の貯蔵、日常の生活、宗教活動。複数の役割が、時代によって重なっていたと考えるほうが自然だ。

ここで、一つの問いが浮かぶ。

地下都市とは、危険が迫ったときだけ使う避難所だったのか。それとも、ふだんの暮らしと非常時の備えを結びつけた、地域社会のもう一つの生活空間だったのか。

最大2万人という数字は正確なのか

ここが、この記事の核心である。

デリンクユについては、「最大2万人を収容できた」という説明が広く流通している。2016年の工学系研究論文も、約2万人を収容できる地下都市としてデリンクユを紹介している。したがって、この数字を根拠のない作り話として切り捨てるのは適切ではない。

一方で、トルコ文化観光省の施設解説は、大規模な集団を受け入れられる空間があることを説明しているものの、2万人という具体的な人数は示していない。

つまり2万人は、広く引用されている推定値である。実際に2万人が同時に暮らしたことを示す記録とは、区別しなければならない。そこで、三つの視点から検証してみたい。

1.収容人数はどう算出されるのか

地下空間の面積や部屋の数から人数を推定する場合、どの空間を居住用とみなすかで結果は大きく変わる。通路、倉庫、家畜小屋、礼拝施設、井戸などは、すべてが人の寝起きに使える空間ではない。地下都市の総面積を、そのまま居住可能な面積と考えることはできない。

2.人間以外の存在は考慮されているのか

家畜を地下に入れるなら、動物のための場所、飼料、水、排せつ物の処理が必要になる。調理や生活のための燃料、食料の保管場所、避難者が行き来する通路も確保しなければならない。

仮に2万人という数字が空間の規模から導かれたものだとしても、それだけで2万人が長く暮らせたことにはならない。

3.どれほどの期間、生活できたのか

数時間から数日の緊急避難と、数週間から数か月の生活とでは、必要な設備も物資も大きく違う。換気設備や井戸があることは、地下生活を可能にする条件の一部にすぎない。それだけでは、最大収容人数も、連続して滞在できた日数も確定できない。

以上を踏まえると、「2万人が暮らせた」という表現は、「そのくらいの規模の人々を受け入れうる空間だったという推定」としてなら理解できる。しかし、「実際に2万人が長期間暮らした史実」として語るには、裏づけが足りないと言わざるをえない。

地下都市は何層あり、どこまで広がっているのか

デリンクユは、地下約85メートルに達する規模で紹介されることが多い。現在、観光客が見学できるのは8層である。地下施設全体の広がりについては、資料によって説明が異なる。

ここでは、「8層が公開されている」という確認できる情報と、「全体では18層以上に達する」という一般向けの説明を分けて考えたい。複雑な通路や中間階をどう数えるかによって、階層数は変わりうるからだ。階層数を確定した数字として扱うより、公開範囲と全体構造の推定を分けて語るほうが、より正確である。

また、地下都市を地上の高層ビルにたとえるだけでは、その特徴は伝わらない。大切なのは深さだけでなく、横に広がる部屋や通路がどうつながり、生活と防御を支えていたかという点だ。

AIイメージ

1963年の再発見――現代に姿を現した地下の歴史

デリンクユは、1963年に民家の改修をきっかけに再発見されたことで知られる。壁の向こうの空間が、さらに別の部屋や通路へとつながっていたという経緯は、地下都市の存在を現代の人々に改めて知らせる出来事だった。

ただし、1963年は地下都市が「発見された年」であって、建設された年ではない。歴史から完全に忘れ去られていたことを証明する年でもない。

観光公開の開始年についても、資料によって1965年、1967年などの違いが見られる。そのため、ここでは一つの年に決めつけず、「公開開始年には資料間の差がある」とだけ記しておく。

地上の暮らしが変わっても、地下に残されたものは、長い時間を経て、ふたたび人々の前に現れることがある。

結論――2万人という数字よりも、地下に暮らしを造った事実

デリンクユを「2万人を収容した驚異の地下都市」という見出しだけで終わらせてしまうのは、惜しい。

人数の推定には不確実性があり、実際に同時に何人が暮らしたのか、どれほど長く生活できたのかについては、確かな証拠と推定を分けて考えなければならない。

けれども、収容人数が確定していないからといって、地下都市の価値が失われるわけではない。

人々は岩盤を掘り、通路をつなぎ、空気と水を確保し、食料を貯え、外部からの侵入を防ぐ工夫を重ねた。その構造そのものが、危険に備えながら暮らしを守ろうとした人々の知恵を、今に伝えている。

地上に町を築くことが人間の営みなら、地下にもう一つの町を築くこともまた、人間の営みだった。

人々が本当に必要としていたのは、何万人も収容できる巨大な空間だったのか。それとも、地上が危険になったときにも、命と暮らしをつなぎとめられる場所だったのだろうか。

The end

最後までお付き合い下さり有難う御座います、この記事があなたの明日を少しだけ彩るスパイスとなれば嬉しいです。​​​​​​​​​​​​​​​​

Thank you for reading to the end. I hope this article adds a little spice to your day tomorrow.

スポンサーリンク

投稿者: toshi196747

1967年生 文化遺産 など先人の轍を感じる物事が好きです、又 fenderギター を愛するguitar弾きです。 愛犬cookieに癒されながら、好きな読者と記事更新に勤しんでいます。 人が宿すノスタルジーという心情には夢を含みます、そこには明日の創造へ繋がるインスピレーションを得る『温故知新』が有るのです。 どうぞ過去考察ブログ『time slip cafe retro-flamingo』よろしくお願い致します。