retro flamingoへようこそ‼️
“飴と紙芝居” の続きを読む
カテゴリー: Cafe retro flamingo
Tube(真空管)の温もり
セピア色の想い出
『Lo−Fi 』freak
幸福の『大衆食堂』
✒️ ステイタスシンボル『万年筆』
retro- flamingoへようこそ‼️
“✒️ ステイタスシンボル『万年筆』” の続きを読む
【セルロイドとは何か?】世界初のプラスチックが生んだ昭和レトロの光と闇|人形・映画フィルム・眼鏡フレームに残る危険物素材の真実
今回は昭和30年代頃まで人形や眼鏡フレーム、他にも広範な物の素材で使われていた、セルロイドを見てみたいと思います。 セルロイド人形とかよく言われるので皆さん耳にした事は有るのではないでしょうか⁉️ 昭和レトロな時代年生まれの私などはセルロイドと聞くだけで昭和レトロの暖かい感じを覚えるのです。ʕʘ̅͜ʘ̅ʔ
ハンバーグは日本料理である──家族の記憶と辿る、日本”洋食”150年の真実

) 唐津バーグ(5個) 九州産黒毛和牛ハンバーグ からつばーぐ いきや食品 ギフト 贈り物 贈答用 お取り寄せ Amazon おすすめ
あの週末のドライブインからすべては始まった
日曜日の昼下がり、父の運転する車は高速道路を降りてドライブインへと滑り込んだ。
扉を開けた瞬間に広がる、バターと肉の焦げる匂い。ガラスケースに並ぶ色鮮やかな料理のサンプル。ハンバーグ、エビフライ、カレーライス。少しざわついた店内には、旅の途中の家族連れが何組も座っていた。
「何にする?」
父のその問いかけに、私はいつもハンバーグを選んだ。楕円形の肉の塊に、照りのあるソースがかかり、コーンとグリーンピースが添えられている。フォークを入れると、肉汁がじゅわりと溢れる。それは、子供にとっての「特別な週末」の味だった。
あれから何十年も経った今、ふと疑問が湧く。
なぜ、あの味は”懐かしさ”として今も心に残るのか?
そもそも”洋食”とは何者なのか?
ハンバーグは西洋料理だと思っていた。しかし、イタリアンレストランにもフレンチレストランにもハンバーグはない。それは「洋食屋」にしか存在しない、奇妙な料理だった。
その正体を探るため、私は150年前の日本へと遡ることにした。
洋食以前の日本──肉を食べなかった国の台所
江戸時代までの日本人は、ほとんど肉を食べなかった。
米、麦、魚、野菜、豆腐、味噌。仏教の影響と為政者による肉食禁止令により、日本の食卓から獣肉は遠ざけられていた。もちろん例外はあった。薬食いと称して猪や鹿を食べる地域もあったし、彦根藩の味噌漬け牛肉は将軍家への献上品だった。しかし、それは「表向きには語らないもの」だった。
そんな国に、西洋人がやってきた。
1859年、横浜開港。外国人居留地には西洋人が住み始め、彼らは肉を焼いた。油を使い、フライパンで炒め、オーブンで焼いた。
匂い。油の音。煙。
日本人にとって、それは異質な「事件」だった。
当時の記録には、「獣肉を焼く臭気が耐えがたい」といった苦情が残されている。それほどまでに、西洋料理は「異物」だったのだ。
日本初の西洋料理店と、名もなき料理人たち
しかし、時代は動いていた。
1863年、横浜に「良林亭」という西洋料理店が開業する。
経営者は草野丈吉という日本人だったが、彼には西洋料理の知識はなかった。おそらく西洋人のコックを雇い、西洋人のための店として営業していたのだろう。やがて店は「自由亭」と改名し、日本人にも開放されるようになる。
ここで重要なのは、草野丈吉という「名前の残った人物」ではない。
その厨房で、下働きとして皿を洗い、食材を運び、コックの動きを盗み見ていた「名もなき日本人」たちだ。
彼らは給料をもらいながら技術を学び、舌で味を覚え、やがて全国へ散っていった。横浜から東京へ。東京から大阪へ。大阪から神戸へ。そして、彼らはそれぞれの街で「自分なりの西洋料理」を作り始めた。
洋食を広めたのは、教科書にも載らない無名の料理人たちだったのだ。
明治の名店ラッシュと「和洋折衷」という革命
明治時代に入ると、洋食店は爆発的に増えていく。
1868年、築地ホテル館が開業。本格的なフランス料理を提供したが、わずか数年で焼失する。
1872年、築地精養軒が開業。こちらは現存する日本最古の西洋料理店として、今も営業を続けている。
そして1895年、煉瓦亭が銀座に誕生する。
煉瓦亭は、日本の洋食史において革命的だった。彼らは「西洋料理を真似る」のではなく、「日本人のために作り直す」ことを選んだ。
たとえば、カツレツ。
本来のウィーン風カツレツは薄い仔牛肉だったが、煉瓦亭は分厚い豚肉を使い、たっぷりの油で揚げた。ご飯と一緒に食べられるよう、千切りキャベツを添えた。これが後の「とんかつ」になる。
オムライスも煉瓦亭の発明とされる。ケチャップライスを卵で包むという発想は、西洋には存在しなかった。
1897年、東京には1500軒もの洋食屋が存在していた。
「和洋折衷」という言葉が流行語になり、洋食は文明開化の象徴となった。それは単なる模倣ではなく、日本人による「翻訳」だった。

大衆化する洋食──8銭カレーと食堂文化
しかし、洋食はまだ「ハレの日」の料理だった。庶民には手が届きにくい、特別な食事だった。
それを変えたのが、須田町食堂の登場だ。
1903年に開業した須田町食堂は、和食・洋食・中華を一つの店で提供する「大衆食堂」というスタイルを確立した。
カレーライスは8銭。当時のかけそばが1銭だったことを考えれば高いが、それでも特別な店に行くよりはずっと安かった。
ここで起きたのは、「洋食の日常化」だった。
カレーライスは、もはや「西洋の料理」ではなく、「日本人が普通に食べるもの」になっていった。それは海軍のカレー、学校給食のカレー、家庭のカレーへと広がり、やがて「国民食」となる。
洋食は、庶民の味へと落ちていった。
戦後日本を変えた”フライパン運動”という静かな革命
戦後、日本の食卓をさらに変えたのは、1956年に始まった「フライパン運動」だった。
白いキッチンカーが全国を巡回し、主婦たちに「新しい料理」を教える。ハンバーグ、コロッケ、シチュー。講習は無料で、レシピも配られた。
一見すると善意の食育活動に見えるが、その背後にはアメリカ合衆国農務省の思惑があった。
条件は一つ。「小麦粉を使うこと」。
当時のアメリカは小麦が余剰生産状態にあり、日本はその消費先として期待されていた。フライパン運動は、食料政策の一環だったのだ。
しかし、それでも日本の主婦たちはフライパンを受け取り、新しい料理を学んだ。それは「近代的な食事」「栄養バランス」「家族の健康」という価値観とセットで届けられた。
この運動はやがて日本食生活協会へと引き継がれ、洋食は完全に「日本の家庭料理」として定着していく。
洋食とは、政治と栄養政策の交差点だった。

洋食の定義をめぐる知の格闘
では、洋食とは何なのか?
この問いに、多くの研究者が挑んできた。
食文化研究者の岡田哲氏は、「パンか、米か」という視点から洋食を分析した。西洋料理はパンと一緒に食べるが、洋食は米と一緒に食べる。つまり、洋食とは「ご飯に合うように作り変えられた西洋風料理」だと定義した。
文化人類学者の石毛直道氏は、洋食を「再構築された外来風食事システム」と呼んだ。それは単なる模倣ではなく、日本人が主体的に作り直したものだという指摘だ。
料理研究家の村岡實氏は、「日本的要素を多分に含む料理」と表現した。
共通しているのは、洋食が「国籍不明」であるということだ。
それは西洋料理のコピーではない。しかし、和食でもない。洋食は、日本人による「翻訳」であり、「再発明」だった。
なぜ洋食は、こんなにも日本人の心に残るのか
ハンバーグ、オムライス、ナポリタン、エビフライ。
これらの料理が心に残るのは、味覚だけの問題ではない。それは「記憶」と結びついているからだ。
家族で行ったデパートの大食堂。学校帰りに友達と入った洋食屋。ドライブインで食べた特別なランチ。母が作ってくれたハンバーグ。
洋食は、少しの贅沢と、家族の時間と、日常の中の非日常を運んできた。
それは「西洋の味」ではなく、「日本の記憶の味」だった。
冒頭のドライブインで食べたハンバーグも、そうだ。あの味が懐かしいのは、それが父との週末の思い出と不可分だからだ。
洋食は、日本人の人生に寄り添ってきた。

ハンバーグは、もう日本料理だ
現代、西洋料理は国別に細分化されている。
イタリアン、フレンチ、スペイン料理、ドイツ料理。それぞれに専門店があり、本場の味が求められる。
しかし、それでも「洋食」という言葉は残り続けている。
なぜなら、洋食は日本人が生んだ独自の料理文化だからだ。
ハンバーグはハンブルグ由来かもしれない。しかし、デミグラスソースをかけ、ご飯と味噌汁と一緒に食べるハンバーグは、もはや日本料理だ。
オムライスはフランス料理ではない。ナポリタンはイタリア料理ではない。それらは、日本でしか生まれ得なかった料理だ。
洋食とは、日本が生んだ”近代の郷愁”である。
それは明治の文明開化から、昭和の高度成長、平成の家庭の食卓を経て、今も私たちの記憶の中に生き続けている。
締めの一文
あの日のドライブインの味は、150年分の歴史を噛みしめていたのかもしれない。
ハンバーグを一口食べるたび、私たちは無意識のうちに、日本の近代そのものを味わっているのだ。
最後までお付き合い下さり有難う御座います、この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。
Walkmanが青春を持ち歩き可能にした日──1979年7月1日、ソニーが仕掛けた「ナウい革命」の全記憶

ソニー(SONY) ウォークマン Sシリーズ 16GB NW-S315 : MP3プレーヤー Bluetooth対応 最大52時間連続再生 イヤホン付属 2017年モデル ブラック NW-S315 B 過去1か月で100点以上購入されました
10年ひと昔、その”3昔以上前”に起きた革命
「10年ひと昔」という言葉がある。それならば30数年前は、もう3昔以上も前のことになる。しかし、私にとってその時代は決して色褪せない。なぜなら、そこには音楽とともに生きた青春があったからだ。
あの頃、音楽は生活の中心だった。いや、正確に言えば「LIFE is music」だった。
朝起きてから夜眠るまで、何かしらの音楽が鳴っていた。レコードプレーヤーで針を落とし、ラジカセでカセットテープを再生し、FMラジオから流れる新曲をエアチェックする──。
でも、音楽は基本的に「家で聴くもの」だった。
レコードプレーヤーは据え置き型で重く、ラジカセも持ち運べるとはいえ肩からぶら下げるには大袈裟すぎた。音楽は部屋の中、友人の家、喫茶店のジュークボックス。そこにしか存在しなかった。
ところが、1979年7月1日──。
たった一つの小さな機械が、その常識を根底から覆した。
1979年7月1日、日本から世界へ──初代Walkman誕生の衝撃
ソニー初代ウォークマン TPS-L2。
昭和54年7月1日、この銀色の小さな箱が世に放たれた瞬間、音楽は「持ち歩くもの」になった。
開発のきっかけは、ソニー創業者の一人・井深大氏の「移動中にもっといい音で音楽を聴きたい」という極めてシンプルな欲求だったという。当時、ソニーには小型カセットレコーダー「プレスマン」があったが、井深氏はこれを「再生専用」に特化させるよう指示した。
録音機能を削ぎ落とす──。
今でこそ当たり前のように思えるこの判断は、当時としては極めて大胆だった。社内外からは「録音できない機械なんて売れるわけがない」という声が相次いだ。しかし井深氏と盛田昭夫氏は、この直感を信じた。
結果はどうだったか。
TPS-L2は若者を中心に爆発的にヒットし、発売からわずか2ヶ月で当初の生産計画を大幅に上回る売れ行きを記録した。
重さ約390g、厚さ約3.5cm。今のスマートフォンと比べれば確かに大きいが、当時の感覚では驚異的な小型・軽量化だった。
そしてもう一つ、革命的だったのがヘッドフォンの存在だ。
音楽はそれまで「みんなで聴くもの」だった。しかしWalkmanは、音楽を完全に「個人のもの」にした。耳に装着した瞬間、街中であろうと電車の中であろうと、そこには自分だけの音楽空間が生まれた。
これは単なる技術革新ではなく、文化的革命だった。
Walkmanが生んだ”文化”──音楽は街へ、旅へ、人生へ
Walkmanの登場によって、音楽体験は決定的に変わった。
自室の四畳半で聴いていた音楽が、街中へ飛び出した。通学路、満員電車、放課後の公園、週末の旅先。どこへ行くにも、音楽が一緒だった。好きなアーティストの声が、いつでも耳元で囁いてくれた。
ヘッドフォンを首にかけて街を歩く姿は、それ自体が一種のファッションだった。Walkmanを持っているということは、ただ音楽を聴いているだけでなく、ある種のライフスタイルを体現していることを意味した。
都市。上京。自由。自己表現。
地方から東京へ出てきた若者たちにとって、Walkmanは憧れの象徴でもあった。私もその一人だった。新宿の街をWalkmanで音楽を聴きながら歩くだけで、何か特別な存在になれたような気がした。
音楽は単なる娯楽ではなく、生き方そのものだった。
Walkmanは機械ではなく、相棒だった。

アナログの魅力──カセットテープという不完全さの美学
カセットテープには独特の「温かみ」があった。
デジタル音源のようなクリアさはない。雑音(ヒスノイズ)が混じり、再生を繰り返すうちに音質は劣化していく。テープが伸びたり絡まったりすることもあった。巻き戻しや早送りには時間がかかり、聴きたい曲にたどり着くまでに何度もボタンを押す必要があった。
でも、だからこそ良かった。
カセットテープは「不完全」だった。その不完全さが、愛着を生んだ。A面とB面があり、曲順に意味があり、ジャケットには手書きのメモが書き込まれていた。友人から借りたテープには、その人の体温が残っているような気さえした。
そして何より、情報が少なかったからこそ、深く考えた。
今はSpotifyで何百万曲も聴けるが、当時は手元にあるテープを何度も何度も繰り返し聴いた。歌詞カードを穴が開くほど読み込み、ライナーノーツでアーティストの思想に触れ、一つのアルバムと何ヶ月も向き合った。
単純明快だったアナログ時代の思考回路。それは決して劣っていたわけではなく、むしろ想像力を育てる土壌だったのかもしれない。
Desobry ポータブルCDプレーヤーコンパクトスピーカー内蔵 FMトランスミッター付き
デジタルへの進化──Walkmanは止まらなかった
Walkmanはカセットテープだけで終わらなかった。
1984年、ソニーは世界初のポータブルCDプレーヤー「D-50」を発売。CDウォークマンの時代が始まった。1990年代にはMD(ミニディスク)ウォークマンが登場し、録音・編集の自由度が飛躍的に高まった。
そして2000年代。フラッシュメモリを搭載したデジタルオーディオプレーヤーへと進化し、やがてiPodやスマートフォンの時代へと移行していく。
形は変わった。技術も変わった。しかし、一貫していたのは「音楽を携帯する」という思想だった。
小型化、軽量化、高音質化──。Walkmanが1979年に掲げた旗は、今も世界中の音楽プレーヤーに受け継がれている。
初代TPS-L2から始まった物語は、形を変えながら現代の音楽ライフの礎になった。
「ナウい」という言葉が象徴する時代感覚
「Walkman、ナウいね〜」
当時、この言葉は日常的に交わされていた。
「ナウい(now-い)」──英語の”now”に形容詞化する接尾語をつけた造語で、「今っぽい」「最先端」「オシャレ」といった意味を持つ。1980年代、若者文化の中で広く使われた。
Walkmanを持っている人は「ナウい人」だった。新しい音楽を知っている人は「ナウい感性」を持っている。渋谷や原宿を歩く若者たちは、みんな「ナウく」なりたかった。
今で言えば「イケてる」「エモい」に近い感覚だろうか。でも、「ナウい」にはもっと未来志向の響きがあった気がする。今この瞬間を生きている、今この瞬間が最高だという肯定感。
言葉は時代とともに消えていく。「ナウい」も今ではほとんど使われない。
でも、感覚は残る。
「今を生きたい」「新しいものに触れたい」「自分らしくありたい」──その普遍的な欲求は、時代を超えて受け継がれている。
個人的記憶──Walkmanとともに上京した青春
私が初めてWalkmanを手にしたのは、地方から東京へ出てきた年だった。
それまで音楽は家の中でしか聴けなかった。でもWalkmanを持った瞬間、世界が広がった。通勤電車の中で好きなバンドを聴きながら、窓の外を流れる景色を眺める。新宿の雑踏を歩きながら、心の中で音楽に合わせてリズムを刻む。
音楽が、街が、自分が、一つになった。
当時の私にとって、Walkmanは単なる機械ではなく心の伴走者だった。上京したばかりの不安、未来への期待、孤独と自由が入り混じった複雑な感情──それらすべてを音楽が包んでくれた。
ヘッドフォンから流れる歌詞が、自分のために書かれたもののように感じられた日もあった。知らない街を歩きながら、ふとメロディに合わせてクリエイティブなアイデアが浮かんだ夜もあった。
音楽は、私の人生そのものだった。
現代への問い──進化の先で、私たちは何を持つか
今、音楽は無限にある。
SpotifyやApple Musicを開けば、何百万曲もの楽曲にアクセスできる。プレイリストはAIが自動生成してくれる。音質はロスレスで完璧。Bluetoothイヤホンはケーブルすら不要だ。
技術は極限まで進化した。利便性も、音質も、当時とは比べ物にならない。
でも──。
1本のカセットテープを聴き込む体験は、もうない。
A面とB面を行ったり来たりしながら、アルバム全体の流れを体で覚えるような聴き方。歌詞カードを眺めながら、アーティストの意図を想像する時間。お気に入りの曲にたどり着くまでの、あのもどかしくも愛おしい「間」。
情報が溢れている今だからこそ、探究心が試されているのかもしれない。
無限の選択肢があるからこそ、「何を選ぶか」ではなく「何に興味を持ち続けるか」が大切になる。
技術がどれだけ進化しても、心が動く瞬間の本質は変わらない。音楽を愛する気持ち、新しいものに出会う喜び、誰かと感動を共有したいという欲求──。
それはアナログでもデジタルでも、同じだ。
結び──初代Walkmanの顔を、今どう見るか
初代Walkman TPS-L2は、今見ると確かに「古い」。
銀色の箱、カセットテープを入れる蓋、巻き戻し・再生・早送りの物理ボタン。デジタル世代から見れば、博物館に展示されていてもおかしくない代物だ。
でも私には、それが原点に見える。
すべてがここから始まった。音楽を街へ連れ出すという発想、個人の音楽空間という概念、携帯する自由──。1979年7月1日、日本のソニーが世界に投げかけたこの小さな革命は、今も私たちの生活の中に息づいている。
スマートフォンで音楽を聴くたびに、私は思い出す。
あの日、初めてWalkmanを手にした時のワクワクを。ヘッドフォンから流れる音楽に背中を押されて、知らない街へ飛び込んでいった勇気を。
あなたにとっての”ナウい”は、何でしたか?
きっとそれは、音楽でも、ファッションでも、出会いでも、何でもいい。ただ一つ確かなのは、その瞬間があなたを形作っているということ。
そして──。
またいつか、あの頃の音楽を聴きながら、街を歩きたくなる日が来るかもしれない。
その時はきっと、Walkmanが教えてくれた「今を生きる」感覚を、もう一度思い出すだろう。
──おわり──
最後までお付き合い下さり有難う御座います、この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。
【土間再考】なぜ今、土間のある暮らしが最強なのか?1970年代の記憶と現代リノベを繋ぐ「自由すぎる空間」の正体

中村琢巳 生きつづける民家 -保存と再生の建築史- 歴史文化ライブラリー
近年、リノベーションや古民家カフェといった言葉を耳にする機会が増えました。
新築住宅が次々と建てられる一方で、空き家の増加が深刻な社会問題となる現代において、古い建築を活かすという選択は、単なる懐古趣味ではなく「未来への実用的な解答」とも言えるでしょう。
建築物には時代ごとの価値観と、そこに暮らした人々の生活哲学が色濃く反映されています。
今回は、そんな日本の住まいの原点とも言える空間―「土間」に焦点を当て、私自身の記憶と、歴史的に裏付けられた建築様式の視点から、その本質的な魅力を掘り下げてみたいと思います。
1970年代の記憶に残る「土間」という舞台
1970年代。
私の家には、居間と炊事場の間に、子供心に「ずいぶん広い」と感じる土間がありました。
夕方、母が晩ご飯の支度をする横で、私は三輪車に乗って土間を行き来していた―そんな光景を、今でも鮮明に思い出します。
その土間は家の中央を貫き、正面へと続いていました。
当時、父が営んでいた自転車店の店先へとそのままつながる構造で、生活と仕事、家族と地域が一体となる空間だったのです。
今振り返ると、家の中にありながら外ともつながるその空間は、子供にとって驚くほど自由で、発想の幅を自然と広げてくれる場所でした。
土間とは何か ―― 日本家屋における機能的必然
土間とは、日本の伝統的な民家や農家、町家に見られる、床を張らず地面とほぼ同じ高さで仕上げられた室内空間を指します。
一方で、畳や板敷きの部分は「床(ゆか)」と呼ばれ、土間と床が明確に区分されることが、日本家屋の大きな特徴でした。
この構造は決して偶然ではありません。
土間は本来、生業(なりわい)の場として重要な役割を果たしていました。
-
農作業の準備や収穫物の処理
-
商いの店先
-
道具の修理や制作
-
竃(かまど)を用いた炊事
こうした火・水・土を扱う作業には、可燃物が少なく、掃除がしやすい土間が最適だったのです。
実際、竃は大量の火力を必要とするため、防火の観点からも土間に設けられるのが一般的でした。
現代住宅から消えた理由と、その裏側
時代が進むにつれ、土間は徐々に姿を消していきます。
高度経済成長期以降、仕事場は家の外へ分離され、生活空間は「清潔で管理しやすい」ことが重視されるようになりました。
また、
-
ガス・IHコンロの普及
-
上下水道の整備
-
断熱・気密性能を優先する住宅設計
といった要因も、土間を不要なものとしていった背景にあります。
さらに現代社会では、仕事と私生活を明確に切り分ける「オン・オフ」の思想が重視され、土間が持っていた曖昧で融通の利く空間性は、効率の名のもとに削ぎ落とされていきました。
土間が育んだ、人と人との距離感
それでも、土間の記憶が温かく胸に残るのはなぜでしょうか。
隣人や知り合いがふらりと訪れ、土間から床に腰を下ろして話をする。
お茶を飲み、世間話をし、特別な用事がなくても時間を共有する。
雨の日には、子供たちが土間で遊び、靴を脱ぐか脱がないかも曖昧なまま、内と外が自然につながっていた―。
そこには、現代のインターホン越しのやり取りでは得られない、人と人との間にあった緩やかな安心感が確かに存在していました。

現代に再評価される「土間のある暮らし」
興味深いことに、土間は近年、再び注目を集めています。
古民家再生や高級住宅において、
-
趣味の作業場
-
ギャラリー
-
カフェスペース
-
自転車やアウトドア用品の置き場
として、あえて土間を設ける設計が増えています。
それは、土間が持つ
「自然との一体感」「活動の自由度」「空間の余白」が、ストレス社会を生きる現代人にとって、むしろ贅沢な価値となったからでしょう。
昔の知恵は、決して古びない
残念ながら、私は今「土間のある家」に住んではいません。
それでも、あの空間がもたらしてくれた感覚―自由さ、開放感、人の気配―は、今も心の奥に残っています。
昔良かったものは、ただ懐かしいだけではありません。
時代を越えてなお、現代の暮らしにも通用する本質的な優れた要素を内包しているのです。
土間のある家、いかがでしたでしょうか。
記憶と歴史を重ね合わせることで、見えてくる日本の住まいの奥深さ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。

