【決定版】昭和の三種の神器「テレビ受像機」誕生と進化の真実|高柳健次郎から東京五輪まで完全解説
現代では当たり前のように家庭にあるテレビ。しかし、その始まりは決して平坦な道ではありませんでした。昭和の高度経済成長期に「三種の神器」の一つと呼ばれ、日本人の生活を劇的に変えたテレビ受像機。その誕生と普及の歴史を、史実に基づいてわかりやすく整理します。
RETRO FLAMINGO
現代では当たり前のように家庭にあるテレビ。しかし、その始まりは決して平坦な道ではありませんでした。昭和の高度経済成長期に「三種の神器」の一つと呼ばれ、日本人の生活を劇的に変えたテレビ受像機。その誕生と普及の歴史を、史実に基づいてわかりやすく整理します。
♬ 汽車を待つ君の横で僕は 時計を気にしてる―― 1974年、かぐや姫が発表し、のちにイルカさんがカバーして国民的ヒットとなった『なごり雪』。 この歌の中にある「汽車」という言葉は、単なる移動手段ではありません。そこには“時代そのもの”が息づいています。 現代では「電車」と呼ぶのが一般的ですが、当時「汽車」といえば蒸気機関車、あるいは客車列車を指す言葉でした。石炭を焚き、水を沸かし、蒸気の力で巨大な鉄の塊を動かす――それは産業革命以来、人類の近代化を象徴する存在です。英語ではSteam Locomotive。頭文字をとってSLと呼ばれ、日本でも「エスエル」という呼称が広く浸透しました。

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♬ 汽車を待つ君の横で僕は 時計を気にしてる――
1974年、かぐや姫が発表し、のちにイルカさんがカバーして国民的ヒットとなった『なごり雪』。
この歌の中にある「汽車」という言葉は、単なる移動手段ではありません。そこには“時代そのもの”が息づいています。
現代では「電車」と呼ぶのが一般的ですが、当時「汽車」といえば蒸気機関車、あるいは客車列車を指す言葉でした。石炭を焚き、水を沸かし、蒸気の力で巨大な鉄の塊を動かす――それは産業革命以来、人類の近代化を象徴する存在です。英語ではSteam Locomotive。頭文字をとってSLと呼ばれ、日本でも「エスエル」という呼称が広く浸透しました。
中でも日本を代表する蒸気機関車が、D51形蒸気機関車。通称「デゴイチ」です。
1936年(昭和11年)から1945年(昭和20年)にかけて製造され、総生産数は1,115両。これは日本の蒸気機関車単一形式としては最多記録であり、現在も破られていません。
設計したのは当時の鉄道省(後の日本国有鉄道)。
軸配置は1D1(2-8-2)という構造で、動輪が4軸。貨物列車牽引用として設計され、勾配区間に強く、力強い牽引力を誇りました。
戦時中、軍需物資輸送のために大量生産され、日本の物流を支えた“戦時体制の象徴”でもあります。
初期型はボイラー上部が丸く覆われた半流線形で、その姿から「ナメクジ」という愛称も付けられました。無骨でありながら、どこか愛嬌のあるフォルム。煙突から立ち上る黒煙、ドラフト音、ピストンの躍動――それはまさに鉄の生命体でした。
KATO Nゲージ D51 北海道形 ギースルエジェクター 2016-C 鉄道模型 蒸気機関車
戦後、日本は焼け野原から復興へと向かいます。D51は貨物だけでなく旅客列車の牽引にも活躍の場を広げました。
地方幹線や山岳路線では、モクモクと煙を吐きながら客車を引く姿が日常の風景でした。しかし都市部では事情が異なります。火の粉や煤煙による火災リスク、公害問題の懸念から、次第にディーゼル機関車や電気機関車へと置き換えられていきました。
高度経済成長期――
それは同時に、蒸気機関車の終焉へ向かう時代でもあったのです。
1960年代後半から1970年代初頭にかけて、日本では空前の「SLブーム」が起こります。
背景には、廃止が迫る蒸気機関車への郷愁がありました。
石北本線、東北本線、奥羽本線、伯備線――急勾配区間ではD51の重連、時には三重連運転が行われ、その迫力は圧巻でした。
雪煙を巻き上げる北海道の石北峠。
日本海を望む羽越本線。
山陰の険しい伯備線。
煙と蒸気が白い空に溶け、鉄と石炭の匂いが漂う。カメラを構える鉄道ファン、報道陣、そして少年たち。SLはすでに“交通機関”ではなく、“時代の遺産”として撮られる存在になっていたのです。
1975年、国鉄から蒸気機関車は原則全廃。
しかしその直前こそが、最も美しく記録された瞬間でもありました。
山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズに蒸気機関車が頻繁に登場するのは偶然ではありません。監督自身が鉄道を愛し、近代化によって失われゆく日本の風景を意識的にフィルムに焼き付けたのです。
寅さんが旅に出る。
遠ざかるホーム。
汽笛が鳴る。
あの蒸気の白さは、どこか人生の儚さと重なります。
鉄道は「移動」ではなく「別れ」と「再会」の象徴。
だからこそ『なごり雪』の「汽車」は胸に刺さるのです。

画像はイメージです
「電車」ではなく「汽車」。
この言葉の響きには、石炭の匂い、木造駅舎、改札の鋏、硬券切符、ホームの立ち食い蕎麦――そうした昭和の情景が凝縮されています。
蒸気機関車は効率の面では劣ります。
しかし“効率では測れない価値”を持っていました。
音。
匂い。
振動。
そして時間の流れ。
ゆっくりと発車し、力強く加速するあのリズムは、まるで人生の歩みそのもののようです。
金盛 正樹 他1名 蒸気機関車大図鑑: SLのすべてがわかる
現在でもD51は動態保存され、「SLばんえつ物語」(D51 498)などでその姿を見ることができます。観光列車として復活したSLは、もはや実用機ではなく“記憶を運ぶ機関車”です。
煙は演出かもしれない。
しかし、胸の奥に立ち上る感情は本物です。
『汽車』という言葉は、単なる蒸気機関車を超えています。
それは昭和という時代、青春、別れ、そして日本の原風景を内包した“文化的記号”なのです。
としさんが学生時代に歌った『なごり雪』。
その教室の窓の向こうにも、きっとどこかでデゴイチが煙を上げていたはずです。
汽笛はもう日常では聞こえません。
けれど、あの蒸気のリズムは、私たちの記憶の奥で今も静かに走り続けています。
旅・汽車・懐古に想う、年月の収穫 駅
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中村琢巳 生きつづける民家 -保存と再生の建築史- 歴史文化ライブラリー
近年、リノベーションや古民家カフェといった言葉を耳にする機会が増えました。
新築住宅が次々と建てられる一方で、空き家の増加が深刻な社会問題となる現代において、古い建築を活かすという選択は、単なる懐古趣味ではなく「未来への実用的な解答」とも言えるでしょう。
建築物には時代ごとの価値観と、そこに暮らした人々の生活哲学が色濃く反映されています。
今回は、そんな日本の住まいの原点とも言える空間―「土間」に焦点を当て、私自身の記憶と、歴史的に裏付けられた建築様式の視点から、その本質的な魅力を掘り下げてみたいと思います。
1970年代。
私の家には、居間と炊事場の間に、子供心に「ずいぶん広い」と感じる土間がありました。
夕方、母が晩ご飯の支度をする横で、私は三輪車に乗って土間を行き来していた―そんな光景を、今でも鮮明に思い出します。
その土間は家の中央を貫き、正面へと続いていました。
当時、父が営んでいた自転車店の店先へとそのままつながる構造で、生活と仕事、家族と地域が一体となる空間だったのです。
今振り返ると、家の中にありながら外ともつながるその空間は、子供にとって驚くほど自由で、発想の幅を自然と広げてくれる場所でした。

土間とは、日本の伝統的な民家や農家、町家に見られる、床を張らず地面とほぼ同じ高さで仕上げられた室内空間を指します。
一方で、畳や板敷きの部分は「床(ゆか)」と呼ばれ、土間と床が明確に区分されることが、日本家屋の大きな特徴でした。
この構造は決して偶然ではありません。
土間は本来、生業(なりわい)の場として重要な役割を果たしていました。
農作業の準備や収穫物の処理
商いの店先
道具の修理や制作
竃(かまど)を用いた炊事
こうした火・水・土を扱う作業には、可燃物が少なく、掃除がしやすい土間が最適だったのです。
実際、竃は大量の火力を必要とするため、防火の観点からも土間に設けられるのが一般的でした。
時代が進むにつれ、土間は徐々に姿を消していきます。
高度経済成長期以降、仕事場は家の外へ分離され、生活空間は「清潔で管理しやすい」ことが重視されるようになりました。
また、
ガス・IHコンロの普及
上下水道の整備
断熱・気密性能を優先する住宅設計
といった要因も、土間を不要なものとしていった背景にあります。
さらに現代社会では、仕事と私生活を明確に切り分ける「オン・オフ」の思想が重視され、土間が持っていた曖昧で融通の利く空間性は、効率の名のもとに削ぎ落とされていきました。
それでも、土間の記憶が温かく胸に残るのはなぜでしょうか。
隣人や知り合いがふらりと訪れ、土間から床に腰を下ろして話をする。
お茶を飲み、世間話をし、特別な用事がなくても時間を共有する。
雨の日には、子供たちが土間で遊び、靴を脱ぐか脱がないかも曖昧なまま、内と外が自然につながっていた―。
そこには、現代のインターホン越しのやり取りでは得られない、人と人との間にあった緩やかな安心感が確かに存在していました。

現代に再評価される「土間のある暮らし」
興味深いことに、土間は近年、再び注目を集めています。
古民家再生や高級住宅において、
趣味の作業場
ギャラリー
カフェスペース
自転車やアウトドア用品の置き場
として、あえて土間を設ける設計が増えています。
それは、土間が持つ
「自然との一体感」「活動の自由度」「空間の余白」が、ストレス社会を生きる現代人にとって、むしろ贅沢な価値となったからでしょう。
残念ながら、私は今「土間のある家」に住んではいません。
それでも、あの空間がもたらしてくれた感覚―自由さ、開放感、人の気配―は、今も心の奥に残っています。
昔良かったものは、ただ懐かしいだけではありません。
時代を越えてなお、現代の暮らしにも通用する本質的な優れた要素を内包しているのです。
記憶と歴史を重ね合わせることで、見えてくる日本の住まいの奥深さ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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夏になると蚊やその他の害虫に悩まされることが多くなりますが、現代では虫除けスプレーや電子蚊取り器など、対策グッズが充実しています。
しかし私が子供の頃には、8月のお盆になると母の実家に親戚が集まり、吊り下げられた蚊帳の中でみんなで川の字になって眠ったものです。
あの独特の風通しの良さと、ほのかな安心感…そして仕切られた空間の不思議な楽しさが今でも鮮明に思い出されるのです。
夏になると蚊やその他の害虫に悩まされることが多くなりますが、現代では虫除けスプレーや電子蚊取り器など、対策グッズが充実しています。
しかし私が子供の頃には、8月のお盆になると母の実家に親戚が集まり、吊り下げられた蚊帳の中でみんなで川の字になって眠ったものです。
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蚊帳とは何か——シンプルで画期的な防虫システム
蚊帳は約1mm程度の網目で織られた、主に麻や木綿などの天然繊維で作られた吊り下げ式の防虫ネットです。その最大の特徴は「虫は通さず、風は通す」という機能性。エアコンも殺虫剤もない時代に、人々の安眠を守ってくれた画期的な発明でした。
現代でもこの原理は世界中で活用されており、アウトドア用テントには「モスキート・ネット」として標準装備されています。
特にアフリカ諸国や東南アジアでは、マラリア、デング熱、黄熱病など蚊が媒介する感染症対策として、国際機関のプロジェクトを通じて、アフリカを中心に累計で数十億枚規模の蚊帳が配布されています。
日本では昭和後期、下水道の整備による蚊の減少、網戸の普及、そしてエアコンの登場により急速に姿を消しました。しかし近年、化学薬品を使わない自然な防虫法として、またアレルギー対策やエコロジーの観点から再評価されています。

古代エジプトから江戸の町まで——蚊帳の長い歴史
蚊帳の起源は驚くほど古く、古代エジプトまで遡ります。伝承によれば、あのクレオパトラ7世(紀元前69-30年)が細かい亜麻布製の蚊帳を使っていたと語られます。ナイル川流域は蚊の発生地でもあり、王族にとって蚊帳は必需品だったのでしょう。
その後、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ列強が熱帯地方へ進出する際、蚊帳は不可欠な装備となりました。特に1859年から1869年にかけて建設されたスエズ運河の工事では、作業員の健康を守るため大量の蚊帳が使用されたという記録が残っています。
日本への伝来と庶民への普及
日本には奈良時代から平安時代にかけて中国から伝わったと考えられています。当初は絹製の高級品で、貴族や上級武士など限られた階層のみが使用していました。
『枕草子』にも蚊帳とみられる帳の記述があり、平安貴族の夏の必需品だったことがうかがえます。
庶民に広く普及したのは江戸時代です。特に元禄年間(1688-1704年)には、近江商人の西川甚五郎が改良した「近江蚊帳(八幡蚊帳)」が江戸で大ヒットしました。それまでの茶色や白の蚊帳に対し、西川家は鮮やかな萌葱色(もえぎいろ、黄緑色)の麻網に紅色の縁取りを施したデザインで差別化。このブランド戦略は大成功を収め、「近江蚊帳」は江戸庶民の憧れとなったのです。
江戸時代後期の浮世絵師・岳亭春信(がくてい しゅんしん、1770年頃-1844年)とされる人物が描いた『蚊帳売り図』には、天秤棒で蚊帳を担いで売り歩く行商人の姿が描かれています。初夏になると「蚊帳〜、蚊帳〜」という掛け声とともに蚊帳売りが町を歩く光景は、江戸の夏の風物詩だったのです。

日本文化に根付いた蚊帳
蚊帳は単なる生活用品を超えて、日本の文化にも深く浸透しました。
俳句では夏の季語として定着しており、松尾芭蕉、与謝蕪村、正岡子規など多くの俳人が蚊帳を詠んでいます。「蚊帳吊るす 音のなつかし 夕間暮れ」など、蚊帳には日本の夏の情緒が込められているのです。
また「蚊帳の外」という慣用句は、仲間から除外されている状態を表します。みんなが蚊帳の中で涼しく眠っているのに、一人だけ外で蚊に刺されている—…
そんなイメージから生まれた表現です。
終わりに
便利さを追求する現代社会では、蚊帳のような「古い」ものは忘れ去られがちです。しかし、その裏には化学薬品への依存、エネルギー消費の増大、アレルギーの増加といった弊害も生まれています。
昔の人々の知恵が詰まった蚊帳。そのシンプルで自然に寄り添った暮らし方には、これからの時代を生きるヒントが隠されているのかもしれません。
最後までお付き合い下さり有難う御座います。
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文化を読み解こうとした時に流行した物や人々の生活を知る材料として、その時代の広告を見る事で世相を伺う事ができますよね、 昨今 昭和retroとして様々なジャンルで人気があるようですが、今回は琺瑯看板(ほうろうかんばん)を取り上げて見ようと思います。 私の幼少の頃は道沿いの民家の壁や街中の店先には、会社のロゴや宣伝文句を打ち出した 様々なホーロー看板が掲げてありました、 当時はと言うと建物の壁色も今みたいにカラフルなものは少なく景観とすれば木の材質のこげ茶色というのが街全体の眺望でした、そこにカラフルなホーロー看板を貼る事で殊更に目を惹く広告の意味を成したのです。
「超小型」に込められた大きな夢
1957年(昭和32年)、戦後復興の熱気がまだ冷めやらぬ日本の街角に、愛嬌たっぷりの小さな三輪車が颯爽と登場しました。その名も『ミゼット』──英語で「超小型のもの」を意味する言葉です。
鳥の嘴を思わせる丸みを帯びたノーズの下には、ちょこんと1輪のタイヤ。まん丸のヘッドライトは、まるで生き物のように街を見つめています。小さなボディから響く「ブルブル」というエンジン音は、どこか頼りなげでありながら、聞く者の心を和ませる不思議な魅力がありました。
ダイハツ工業が世に送り出したこの三輪トラックは、単なる商用車ではありませんでした。それは、高度経済成長期を支えた庶民の「夢を運ぶ相棒」だったのです。
オート三輪が時代を駆ける

昨今…日本のランドマーク …と言うと多数の観光名所の中から色々と浮かぶものがありますけれど…
今やランドマークタワーと言えばスカイツリーが一番に上がる存在となりました。
あんなにも高い建物が着々と積み上がる光景は壮観と言う他ありません。
その建築技術の高さには脱帽させられるばかりです。
私は 高所恐怖症でして… 高所で作業をされる鳶職の職人さんの使命感と気概には感動し尊敬してやみません。
日本の文化における近代化の歴史に貢献しているのですから尊いですよね〜。
それで今回のテーマではあえてスカイツリーをさしおいて、昭和時代の人々の集大成であり、日本の活力の証とも言える『東京tower』にフォーカスして深堀りしていきたいと思います。
日本の高度経済成長期(昭和33年〜)から半世紀以上に渡り東京の観光名所として君臨し 、建設された当時はパリのエッフェル塔の高さを超えるとされ、世界一の電波塔として戦後復興の日本の象徴として数多くの映画や小説の舞台となってきた、「東京タワー」。
そう…戦後の昭和時代…
『明日は今日より良くなる 前向きに生きる事ができる』と、多くの人々が思えた時代でした。
そのような時代背景と国民一人一人の心が一つとなり、懸命に世相を構築した人々の誠実さが垣間見れる日本のシンボル的存在です。
東京tower建設の経緯
電波の充実を図る為には鉄塔の増設デシタが、鉄塔の乱立は都市景観をそこなということから電波塔を一本化する総合電波塔を建設することになったのです。
その構想はパリのエッフェル塔を超える世界最大の塔を造り、そこに展望台を設けて集客すれば、建設費は10年で元が取れると言うものでした。
構想・設計・建設と各方面の重鎮による計画された仕事は時代の集大成を形にする壮大なプロジェクトでした。
着工から1年3ヶ月後(543日間)が経過した1958年12月23日。
延べ人員219,335人の職人を投与して完成した鉄塔本体の最上部には建設に携わった96人の技術屋の名前が刻まれた金属製の銘板が据えられています。総工費は当時の金額で30億円でした。

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『東京タワー』
その名称は公募によって決定されました。
その応募数は86,269通も寄せられました。
その中で 一番多かった名称は「昭和塔」(1,832通)
続いて「日本塔」 そして「平和塔」でした。
他にも沢山の応募名称がありましたが…
名称審査会に参加した、徳川夢声(とくがわ むせい・日本の弁士、漫談家、作家、俳優)が、
「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありません」と推挙し…
その結果1958年10月9日に『東京タワー』に決定したのです。
当時の日本国民の経済成長期のバイタリティーは凄みかありました。その建立に人々は耳目を集めたものでしょう。
歌謡曲・小説・映画などに取り上げられ今尚人気は不動のものとして存在意義を呈しています。
ジオクレイパー東京タワー 約H140×W60×D60mm ABS 製彩色済みスケールモデル製
東京タワー…
その建設の歴史背景から、今に伝えるものは、日本人の皆がなんのためらいもなく希望と夢を心に日々を駆けていた…そんな時代の記憶…
ノスタルジーを称える大切なモニュメントなのです。
終わり。
最期までお付き合い頂きありがとました。
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こんにちは‼
retro- flamingoへようこそ、
“『和傘』に秘められた日本の技術とアート” の続きを読む
こんにちは‼
retro flamingoへようこそ‼
今年も各地で夏祭り 賑わっていますね〜
もう行かれましたか⁉
因みに夏祭りで連想される物って何を思い浮かべますでしょうか、金魚すくい・綿菓子・ヨーヨー・焼きりんご・浴衣…
他にもそれぞれの方に思い入れのある物があるのではないでしょうか⁉
その中で今回ピックアップするのは、
“提灯の誘い” の続きを読む