パロディとオマージュの狭間で:1970年代日本音楽界のユニークな創造性。

1970年代の日本音楽界を振り返るとき、二つの興味深いグループの存在が浮かび上がる。「ずうとるび」と「フィンガー5」。前者はビートルズのパロディとして明確に位置づけられ、後者はジャクソン5を意識した「日本版」として活動した。この二つのグループは、パロディとオマージュという創作手法の微妙な違いを示す格好の事例となっている。これらはネーミングも去ることながら興味深くとても面白い日本のミュージックシーンにおける話だ。

それについて今回は取り上げて、私の呟きを綴ってみた。

ずうとるび:パロディとしての明確な意図

「ずうとるび」というグループ名は、「ビートルズ」をもじったパロディであることが複数の情報源で明記されている。音楽情報サイトでは「グループ名の『ずうとるび』は世界的な人気を博したバンドである『ビートルズ』をもじったものです」と説明され、ファンブログや解説記事においても「ビートルズのパロディ・バンドというかお笑いグループが存在していた」「グループ名『ずうとるび』は『ビートルズ』をひっくり返したというパロディ」といった記述が繰り返し見られる。

この「ずうとるび」の例は、パロディの本質を明確に表している。パロディとは原作を意図的に模倣し、しばしばユーモアや風刺を込めて変形する手法である。グループ名からして逆さ言葉や業界用語を用いた遊び心があり、「ビートルズのパロディーみたいな意味合いだった」という証言からも、その意図の明確さがうかがえる。

フィンガー5:オマージュとしての敬意

一方、「フィンガー5」については、検索結果に直接「ジャクソン5のパロディ」と明記した一次情報は見当たらない。しかし、フィンガー5がジャクソン5を意識した兄妹グループとして活動し、楽曲やスタイルが類似していることから、一般的に「日本版ジャクソン5」と呼ばれることが多い。

ここで重要なのは、フィンガー5の場合、パロディというよりは「オマージュ」や「日本版」といったニュアンスが強いことである。オマージュは原作への敬意を込めた創作手法であり、単なる模倣を超えて、原作の精神や価値観を受け継ぎながら新しい作品を生み出そうとする試みである。

パロディとオマージュの境界線

両者の違いは、創作者の意図と受け手の解釈において明確に現れる。ずうとるびは名前からして「ひっくり返した」遊び心を前面に押し出し、ビートルズという存在をユーモラスに変形させることを意図していた。これは典型的なパロディの手法である。

対してフィンガー5は、ジャクソン5の成功モデルを日本の文脈に移植し、日本の音楽界で独自の価値を創造しようとした。これは原作への敬意を基盤とするオマージュの姿勢と言える。

1970年代日本音楽界の創造性

興味深いのは、どちらのアプローチも1970年代という時代背景の中で独自の価値を生み出したことである。ずうとるびは「恋があぶない」などのヒット曲を生み出し、フィンガー5は「学園天国」で一世を風靡した。彼らは単なる模倣者ではなく、海外のスタイルを日本の文化的土壌に根ざした形で再創造した創作者だったのである。

この現象は、創造性における「影響」と「独創性」の関係を示している。完全にオリジナルな創作物は存在しないが、既存の作品からの影響をいかに消化し、新しい価値に転換するかが創作者の腕の見せどころとなる。

現代への示唆

現代のコンテンツ産業においても、この「パロディとオマージュ」の問題は重要な意味を持つ。デジタル時代において、既存コンテンツの二次創作やリメイクが日常的になった今、創作者は常に「模倣」と「創造」の境界線を意識せざるを得ない。

ずうとるびとフィンガー5の事例は、同じ「影響関係」であっても、アプローチの違いによって全く異なる作品が生まれることを示している。パロディは批評的な距離を保ちながら原作を変形し、オマージュは敬意を込めて原作の精神を継承する。どちらも正当な創作手法であり、文化の発展に寄与する重要な要素である。

おわりに

1970年代の日本音楽界に現れた「ずうとるび」と「フィンガー5」は、パロディとオマージュという創作手法の豊かな可能性を示している。彼らの存在は、創造性が決して無から生まれるものではなく、既存の文化的資産との対話の中で育まれることを教えてくれる。

現代の私たちもまた、先人たちの遺産を受け継ぎながら、新しい時代にふさわしい表現を模索している。その際、パロディとオマージュという二つの手法は、依然として有効な創作の道具として機能し続けるだろう。重要なのは、どちらを選択するにせよ、その背景にある文化的文脈を理解し、真摯な創作態度を持ち続けることなのである。

アメリカとエジプト

無料航空券が2枚当選したとしたら、どこに行きますか ?

アメリカかエジプトに生きている内に一度は行ってみたい。

アメリカはモニュメントバレー、ナバホの聖地でネイティブアメリカンの方の美しい民族衣装を纏ったダンスを見たい。

アメリカはもう一カ所ワイオミング州のデビルズタワーに行って未知との遭遇を体験して見たい。

壮大な地球のあらましを目の当たりにしたいのだ。

エジプトは言うまでもなく、ピラミッドとスフィンクス見学だ、そしてルクソールとアブシンベルの神殿だ。

どんなときに不安になりますか ?

常に不安です…

そして憂鬱…

その様な時間中の刹那に、気づき、癒やし、諦め、希望、等と様々な意図もしれない雑念を覚えて生きています。

年齢を重ねても魂たる心の内はさほど変わらないのだと思ったりする愚かさの中にても、些細な喜びがあったりします。

chakiと言うアーチトップギター

chaki(茶木)

日本の京都にて元々コントラバスなどのアカデミックな弦楽器を制作していた工房にて、辻井士郎氏が制作を始めたアーチトップギターがその個体の美しいシルエットに魅了されている。

私がこのギターを知るきっかけになったのは、若い時分に大阪のバンド「優香団」 のコンサートに行ったのがきっかけだった、ガッツリブルースにどっぷり浸かったバンドのキャラクターは当時もだが、現在ではとても貴重な存在だったと言えるだろう。

アコースティックの楽器を抱えた4人編成のバンドは皆椅子に座って演奏する…

ライブ中は演者もアルコールを飲んでいたように記憶しているが、演奏を見る観客も勿論酒を抱えての視聴だった、自分は当時職場の先輩と2人で訪れたライブだったが、並べられたホールの折り畳み椅子に座り、スーパードライの大瓶を持ってそのまま飲みながら曲に換気した…

瓶から飲むビールがあれほど不味い物だと思ったのを強烈に思い出に残しているが

それすら彼らの演奏するブルースの病的で暗く喜びの混じったエネルギーは生きている事なる悲しさや寂しさまた明暗である人の根源のような空間へ誘う材料となった。

ブルースとはそう言う物であるのだ…

若い頃にはただ酒を煽って鑑賞するだけの単なる非日常の一幕として出かけた一時だったが、

その経験は長い時間忘れながら、何故だろう、年を重ねて「ふっと」

思い出される…

古臭い個の人生においてセピアともなった記憶の中に微かから、

強烈に思い出される憧れがある。

それは「優香団」のギタリスト「内田勘太郎」がつまびいていたどデカいギターだ!!

当時の記憶では若い自分はプロが使うギターなのだから、高価な物なのだろうと

決めてかかっていたが、

数十年経って興味を寄せる事で分かった事は当時では決して高価な物ではなかったという事実だった。

しかしながら、時代の背景もある、現在では非常に高価な個体となったそのギターは、

唯一無二の存在となっている。

完成されたフォルムは「日本人の心を燃え上がらせる…」

これは自分の主観だけれど、

長い年月を共に完成される傷や経年変化は、まさにジャズであり、ブルースなのだだ…

年齢を重ねて知る事もあるけれど、体の老いとは裏腹に精神年齢はいかがな物なのか。

恥ずかしながら、高校生の頃ギターに憧れてアルバイトして買った安いギター。

その頃から憧れる夢は現在も変わらずに自分の中に潜在している。

時の流れの中で、紆余曲折しながらもたどり着いた、夢の面持ちは今後も

変化するのだろうか…

半世紀以上を人生に費やした今、同年代のヒーロー達には全うして星になる人も日に日に目にする様になった。

どれだけの時間が自分に残されているのか、知る由もないけれど、

まだ残る欲望のまま、このギターを迎え入れる事を決めた。

一度は手にして手放した経験もありながら、再び求める自分の愚かな過ちの心は

きっと次なる高みへ行くことが出来るのだと信じてやまないのである。

それが生きる術なのだから。

「chaki」よ…

喜びは一緒にある。

 

 

 

自信?何の?…

自信はどの程度ありますか ?

若い頃は根拠のない自信があったが…

年齢を重ねるのと引き換えにその能力は衰退して行ったのだった…

今では、石橋を叩いて見るだけだ…

いったい誰が人生100年時代と言われ、喜ぶというのだろうか?

自分にはその心境が皆目わからないのだった。

そして今生きている事に没頭している。

没頭する活動

どのような活動に没頭しますか ?

日々没頭している物…

頭を巡る理想との格闘だ。

興味を持つ物は行動に移し自分を試して見ようと考えながら…

イザと言うときに躊躇してしまう自分があらわれ…

又どうするか思案する。

弱い自分との格闘が多くある中でも、

進行するに至っている物に関しては大いに喜ばしい事であるけれど。

成果を求める気持ちが、思考の浪費にひと役買い…

疲れを伴う。

しかし日々において、そのプロセスの繰り返しに取り憑かれた様に自分は没頭している。

飽きない映画

5回以上観た映画やテレビの連続番組は何ですか ?

自分が癒やされる映画は

「男はつらいよ」寅さん映画です。

自分の幼少の頃からの原風景が見られ、

ノスタルジーが感じられる所に魅了されています。

寅さんの心意気と、わがままのギャップがコミカルで楽しく、

毎回登場するマドンナの美しさ、

そして何より妹さくらの兄さん思いの表情は

美しく。

自分がはさくらファンでもあります。

迷信を信じるか…

迷信を信じていますか ?

迷信を信じるかは、その時と場合に左右されると思っている。

信憑性のあるものからバカげたものまで多分にある中で…

どう判断するかはTPOに流される…

そうすれば、そんなに重要な物でもなさそうで…

そしてそう多く出くわす様な状況も無い、

願かけもやルーティーンもある意味似たような部類だと思う、

オカルトじみた話は、

結果論で話せば、侮るなかれとなる。

自分がまだ18位の頃近所の商店にお菓子の類をよく買いに言っていた、

顔見知りの店主のおばさんが、

支払いの時に自分の手の爪が伸びているのを見て、

「爪が伸びているとカッコ悪いよ、今晩でも良いから切りなさい…

夜爪を切ると親の死に目に会えないからやめとけって言う話があるけれど、

私は夜切っていたけど、ちゃんと親の死に目に会えたから、大丈夫よ!」

そう自分に話してくれた。

何故かこの他愛のない話を、

今50を過ぎた今でも覚えている。

何故か…

例えるならば羊…

ご自身と例える動物とその理由を教えてください。

自分は未年生まれで、

牡羊座。

そしてマトンやラム肉が苦手で食べれない…

これはもう…

自分を動物に例えるとするならば、

他を考えるに及ばない。

性格的な事を突き詰めるならば、

違う観点があるかもしれないが、

もう羊で良い…

そう思う今日のプロンプト回答でした。

100歳にたどり着けた自分へ…

100歳になった自分宛てに手紙を書いてください。

世界はどの様に変化していますか?

100年も生きて、意味がありましたか?

いや、良かったと思っていますか?

何か楽しい事がありますか?

何を食べていますか?

AIの友達はいますか?

……………………………。

100歳まで生きるなんて…

シンドイかったでしょう?

お疲れ様。