Walkmanが青春を持ち歩き可能にした日──1979年7月1日、ソニーが仕掛けた「ナウい革命」の全記憶

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10年ひと昔、その”3昔以上前に起きた革命

10年ひと昔」という言葉がある。それならば30数年前は、もう3昔以上も前のことになる。しかし、私にとってその時代は決して色褪せない。なぜなら、そこには音楽とともに生きた青春があったからだ。

あの頃、音楽は生活の中心だった。いや、正確に言えば「LIFE is music」だった。

朝起きてから夜眠るまで、何かしらの音楽が鳴っていた。レコードプレーヤーで針を落とし、ラジカセでカセットテープを再生し、FMラジオから流れる新曲をエアチェックする──

でも、音楽は基本的に「家で聴くもの」だった。

レコードプレーヤーは据え置き型で重く、ラジカセも持ち運べるとはいえ肩からぶら下げるには大袈裟すぎた。音楽は部屋の中、友人の家、喫茶店のジュークボックス。そこにしか存在しなかった。

ところが、197971──

たった一つの小さな機械が、その常識を根底から覆した。

197971日、日本から世界へ──初代Walkman誕生の衝撃

ソニー初代ウォークマン TPS-L2

昭和5471日、この銀色の小さな箱が世に放たれた瞬間、音楽は「持ち歩くもの」になった。

開発のきっかけは、ソニー創業者の一人・井深大氏の「移動中にもっといい音で音楽を聴きたい」という極めてシンプルな欲求だったという。当時、ソニーには小型カセットレコーダー「プレスマン」があったが、井深氏はこれを「再生専用」に特化させるよう指示した。

録音機能を削ぎ落とす──

今でこそ当たり前のように思えるこの判断は、当時としては極めて大胆だった。社内外からは「録音できない機械なんて売れるわけがない」という声が相次いだ。しかし井深氏と盛田昭夫氏は、この直感を信じた。

結果はどうだったか。

TPS-L2は若者を中心に爆発的にヒットし、発売からわずか2ヶ月で当初の生産計画を大幅に上回る売れ行きを記録した。

重さ約390g、厚さ約3.5cm。今のスマートフォンと比べれば確かに大きいが、当時の感覚では驚異的な小型・軽量化だった。

そしてもう一つ、革命的だったのがヘッドフォンの存在だ。

音楽はそれまで「みんなで聴くもの」だった。しかしWalkmanは、音楽を完全に「個人のもの」にした。耳に装着した瞬間、街中であろうと電車の中であろうと、そこには自分だけの音楽空間が生まれた。

これは単なる技術革新ではなく、文化的革命だった。

Walkmanが生んだ文化”──音楽は街へ、旅へ、人生へ

Walkmanの登場によって、音楽体験は決定的に変わった。

自室の四畳半で聴いていた音楽が、街中へ飛び出した。通学路、満員電車、放課後の公園、週末の旅先。どこへ行くにも、音楽が一緒だった。好きなアーティストの声が、いつでも耳元で囁いてくれた。

ヘッドフォンを首にかけて街を歩く姿は、それ自体が一種のファッションだった。Walkmanを持っているということは、ただ音楽を聴いているだけでなく、ある種のライフスタイルを体現していることを意味した。

都市。上京。自由。自己表現。

地方から東京へ出てきた若者たちにとって、Walkmanは憧れの象徴でもあった。私もその一人だった。新宿の街をWalkmanで音楽を聴きながら歩くだけで、何か特別な存在になれたような気がした。

音楽は単なる娯楽ではなく、生き方そのものだった。

Walkmanは機械ではなく、相棒だった。

アナログの魅力──カセットテープという不完全さの美学

カセットテープには独特の「温かみ」があった。

デジタル音源のようなクリアさはない。雑音(ヒスノイズ)が混じり、再生を繰り返すうちに音質は劣化していく。テープが伸びたり絡まったりすることもあった。巻き戻しや早送りには時間がかかり、聴きたい曲にたどり着くまでに何度もボタンを押す必要があった。

でも、だからこそ良かった。

カセットテープは「不完全」だった。その不完全さが、愛着を生んだ。A面とB面があり、曲順に意味があり、ジャケットには手書きのメモが書き込まれていた。友人から借りたテープには、その人の体温が残っているような気さえした。

そして何より、情報が少なかったからこそ、深く考えた。

今はSpotifyで何百万曲も聴けるが、当時は手元にあるテープを何度も何度も繰り返し聴いた。歌詞カードを穴が開くほど読み込み、ライナーノーツでアーティストの思想に触れ、一つのアルバムと何ヶ月も向き合った。

単純明快だったアナログ時代の思考回路。それは決して劣っていたわけではなく、むしろ想像力を育てる土壌だったのかもしれない。

Desobry ポータブルCDプレーヤーコンパクトスピーカー内蔵 FMトランスミッター付き

デジタルへの進化──Walkmanは止まらなかった

Walkmanはカセットテープだけで終わらなかった。

1984年、ソニーは世界初のポータブルCDプレーヤー「D-50」を発売。CDウォークマンの時代が始まった。1990年代にはMD(ミニディスク)ウォークマンが登場し、録音・編集の自由度が飛躍的に高まった。

そして2000年代。フラッシュメモリを搭載したデジタルオーディオプレーヤーへと進化し、やがてiPodやスマートフォンの時代へと移行していく。

形は変わった。技術も変わった。しかし、一貫していたのは「音楽を携帯する」という思想だった。

小型化、軽量化、高音質化──Walkman1979年に掲げた旗は、今も世界中の音楽プレーヤーに受け継がれている。

初代TPS-L2から始まった物語は、形を変えながら現代の音楽ライフの礎になった。

「ナウい」という言葉が象徴する時代感覚

Walkman、ナウいね〜」

当時、この言葉は日常的に交わされていた。

「ナウい(now-)──英語の”now”に形容詞化する接尾語をつけた造語で、「今っぽい」「最先端」「オシャレ」といった意味を持つ。1980年代、若者文化の中で広く使われた。

Walkmanを持っている人は「ナウい人」だった。新しい音楽を知っている人は「ナウい感性」を持っている。渋谷や原宿を歩く若者たちは、みんな「ナウく」なりたかった。

今で言えば「イケてる」「エモい」に近い感覚だろうか。でも、「ナウい」にはもっと未来志向の響きがあった気がする。今この瞬間を生きている、今この瞬間が最高だという肯定感。

言葉は時代とともに消えていく。「ナウい」も今ではほとんど使われない。

でも、感覚は残る。

「今を生きたい」「新しいものに触れたい」「自分らしくありたい」──その普遍的な欲求は、時代を超えて受け継がれている。

個人的記憶──Walkmanとともに上京した青春

私が初めてWalkmanを手にしたのは、地方から東京へ出てきた年だった。

それまで音楽は家の中でしか聴けなかった。でもWalkmanを持った瞬間、世界が広がった。通勤電車の中で好きなバンドを聴きながら、窓の外を流れる景色を眺める。新宿の雑踏を歩きながら、心の中で音楽に合わせてリズムを刻む。

音楽が、街が、自分が、一つになった。

当時の私にとって、Walkmanは単なる機械ではなく心の伴走者だった。上京したばかりの不安、未来への期待、孤独と自由が入り混じった複雑な感情──それらすべてを音楽が包んでくれた。

ヘッドフォンから流れる歌詞が、自分のために書かれたもののように感じられた日もあった。知らない街を歩きながら、ふとメロディに合わせてクリエイティブなアイデアが浮かんだ夜もあった。

音楽は、私の人生そのものだった。

現代への問い──進化の先で、私たちは何を持つか

今、音楽は無限にある。

SpotifyApple Musicを開けば、何百万曲もの楽曲にアクセスできる。プレイリストはAIが自動生成してくれる。音質はロスレスで完璧。Bluetoothイヤホンはケーブルすら不要だ。

技術は極限まで進化した。利便性も、音質も、当時とは比べ物にならない。

でも──

1本のカセットテープを聴き込む体験は、もうない。

A面とB面を行ったり来たりしながら、アルバム全体の流れを体で覚えるような聴き方。歌詞カードを眺めながら、アーティストの意図を想像する時間。お気に入りの曲にたどり着くまでの、あのもどかしくも愛おしい「間」。

情報が溢れている今だからこそ、探究心が試されているのかもしれない。

無限の選択肢があるからこそ、「何を選ぶか」ではなく「何に興味を持ち続けるか」が大切になる。

技術がどれだけ進化しても、心が動く瞬間の本質は変わらない。音楽を愛する気持ち、新しいものに出会う喜び、誰かと感動を共有したいという欲求──

それはアナログでもデジタルでも、同じだ。

結び──初代Walkmanの顔を、今どう見るか

初代Walkman TPS-L2は、今見ると確かに「古い」。

銀色の箱、カセットテープを入れる蓋、巻き戻し・再生・早送りの物理ボタン。デジタル世代から見れば、博物館に展示されていてもおかしくない代物だ。

でも私には、それが原点に見える。

すべてがここから始まった。音楽を街へ連れ出すという発想、個人の音楽空間という概念、携帯する自由──197971日、日本のソニーが世界に投げかけたこの小さな革命は、今も私たちの生活の中に息づいている。

スマートフォンで音楽を聴くたびに、私は思い出す。

あの日、初めてWalkmanを手にした時のワクワクを。ヘッドフォンから流れる音楽に背中を押されて、知らない街へ飛び込んでいった勇気を。

あなたにとってのナウいは、何でしたか?

きっとそれは、音楽でも、ファッションでも、出会いでも、何でもいい。ただ一つ確かなのは、その瞬間があなたを形作っているということ。

そして──

またいつか、あの頃の音楽を聴きながら、街を歩きたくなる日が来るかもしれない。

その時はきっと、Walkmanが教えてくれた「今を生きる」感覚を、もう一度思い出すだろう。

──おわり──

最後までお付き合い下さり有難う御座います、この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。

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【土間再考】なぜ今、土間のある暮らしが最強なのか?1970年代の記憶と現代リノベを繋ぐ「自由すぎる空間」の正体


中村琢巳 生きつづける民家 -保存と再生の建築史- 歴史文化ライブラリー

近年、リノベーションや古民家カフェといった言葉を耳にする機会が増えました。
新築住宅が次々と建てられる一方で、空き家の増加が深刻な社会問題となる現代において、古い建築を活かすという選択は、単なる懐古趣味ではなく「未来への実用的な解答」とも言えるでしょう。

建築物には時代ごとの価値観と、そこに暮らした人々の生活哲学が色濃く反映されています。

今回は、そんな日本の住まいの原点とも言える空間「土間」に焦点を当て、私自身の記憶と、歴史的に裏付けられた建築様式の視点から、その本質的な魅力を掘り下げてみたいと思います。


1970年代の記憶に残る「土間」という舞台

1970年代。
私の家には、居間と炊事場の間に、子供心に「ずいぶん広い」と感じる土間がありました。
夕方、母が晩ご飯の支度をする横で、私は三輪車に乗って土間を行き来していたそんな光景を、今でも鮮明に思い出します。

その土間は家の中央を貫き、正面へと続いていました。
当時、父が営んでいた自転車店の店先へとそのままつながる構造で、生活と仕事、家族と地域が一体となる空間だったのです。

今振り返ると、家の中にありながら外ともつながるその空間は、子供にとって驚くほど自由で、発想の幅を自然と広げてくれる場所でした。


土間とは何か ―― 日本家屋における機能的必然

土間とは、日本の伝統的な民家や農家、町家に見られる、床を張らず地面とほぼ同じ高さで仕上げられた室内空間を指します。
一方で、畳や板敷きの部分は「床(ゆか)」と呼ばれ、土間と床が明確に区分されることが、日本家屋の大きな特徴でした。

この構造は決して偶然ではありません。
土間は本来、生業(なりわい)の場として重要な役割を果たしていました。

  • 農作業の準備や収穫物の処理

  • 商いの店先

  • 道具の修理や制作

  • 竃(かまど)を用いた炊事

こうした火・水・土を扱う作業には、可燃物が少なく、掃除がしやすい土間が最適だったのです。
実際、竃は大量の火力を必要とするため、防火の観点からも土間に設けられるのが一般的でした。

宮澤 智士 民家史論 ―わが民家研究80年―


現代住宅から消えた理由と、その裏側

時代が進むにつれ、土間は徐々に姿を消していきます。
高度経済成長期以降、仕事場は家の外へ分離され、生活空間は「清潔で管理しやすい」ことが重視されるようになりました。

また、

  • ガス・IHコンロの普及

  • 上下水道の整備

  • 断熱・気密性能を優先する住宅設計

といった要因も、土間を不要なものとしていった背景にあります。

さらに現代社会では、仕事と私生活を明確に切り分ける「オン・オフ」の思想が重視され、土間が持っていた曖昧で融通の利く空間性は、効率の名のもとに削ぎ落とされていきました。


土間が育んだ、人と人との距離感

それでも、土間の記憶が温かく胸に残るのはなぜでしょうか。

隣人や知り合いがふらりと訪れ、土間から床に腰を下ろして話をする。
お茶を飲み、世間話をし、特別な用事がなくても時間を共有する。

雨の日には、子供たちが土間で遊び、靴を脱ぐか脱がないかも曖昧なまま、内と外が自然につながっていた

そこには、現代のインターホン越しのやり取りでは得られない、人と人との間にあった緩やかな安心感が確かに存在していました。


現代に再評価される「土間のある暮らし」

興味深いことに、土間は近年、再び注目を集めています。
古民家再生や高級住宅において、

  • 趣味の作業場

  • ギャラリー

  • カフェスペース

  • 自転車やアウトドア用品の置き場

として、あえて土間を設ける設計が増えています。

それは、土間が持つ
「自然との一体感」「活動の自由度」「空間の余白」が、ストレス社会を生きる現代人にとって、むしろ贅沢な価値となったからでしょう。


岸本 章 世界の民家園―移築保存型野外博物館のデザイン

昔の知恵は、決して古びない

残念ながら、私は今「土間のある家」に住んではいません。
それでも、あの空間がもたらしてくれた感覚自由さ、開放感、人の気配は、今も心の奥に残っています。

昔良かったものは、ただ懐かしいだけではありません。
時代を越えてなお、現代の暮らしにも通用する本質的な優れた要素を内包しているのです。


土間のある家、いかがでしたでしょうか。

記憶と歴史を重ね合わせることで、見えてくる日本の住まいの奥深さ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。


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ご回答をありがとうございました。 ✨

ペリー来航が変えた日本人の服装!明治の和洋折衷ファッションから現代和服まで完全解説

皆さん和服に興味はありますか?
特に女性の方々は、成人式の振袖、夏の浴衣、結婚式の色打掛など、人生の節目で著物に触れる機会が多いのではないでしょうか。和服は日本人の一大イベントに欠かせない民族衣裝といえます。
私自身は旅行先のホテルで浴衣を着る程度で、本格的な和装の経験はほとんどありませんでした。ただ、そういえば結婚式で一度袴を着たことがあります。若い頃は特に気に留めませんでしたが、最近は街で和服姿の方を見かけると、その美しさに目を奪われるようになりました。
そんな非日常を演出する和服…
今回は、日本人の服装がどのように変遷してきたのか、歴史的事実をもとに詳しく見ていきたいと思います。

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こんにちは

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夏の夜を守った”緑の城”—クレオパトラも愛用した蚊帳の知られざる歴史

夏になると蚊やその他の害虫に悩まされることが多くなりますが、現代では虫除けスプレーや電子蚊取り器など、対策グッズが充実しています。
しかし私が子供の頃には、8月のお盆になると母の実家に親戚が集まり、吊り下げられた蚊帳の中でみんなで川の字になって眠ったものです。
あの独特の風通しの良さと、ほのかな安心感…そして仕切られた空間の不思議な楽しさが今でも鮮明に思い出されるのです。

夏になると蚊やその他の害虫に悩まされることが多くなりますが、現代では虫除けスプレーや電子蚊取り器など、対策グッズが充実しています。

しかし私が子供の頃には、8月のお盆になると母の実家に親戚が集まり、吊り下げられた蚊帳の中でみんなで川の字になって眠ったものです。

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蚊帳とは何か——シンプルで画期的な防虫システム

蚊帳は約1mm程度の網目で織られた、主に麻や木綿などの天然繊維で作られた吊り下げ式の防虫ネットです。その最大の特徴は「虫は通さず、風は通す」という機能性。エアコンも殺虫剤もない時代に、人々の安眠を守ってくれた画期的な発明でした。

現代でもこの原理は世界中で活用されており、アウトドア用テントには「モスキート・ネット」として標準装備されています。

特にアフリカ諸国や東南アジアでは、マラリア、デング熱、黄熱病など蚊が媒介する感染症対策として、国際機関のプロジェクトを通じて、アフリカを中心に累計で数十億枚規模の蚊帳が配布されています。

日本では昭和後期、下水道の整備による蚊の減少、網戸の普及、そしてエアコンの登場により急速に姿を消しました。しかし近年、化学薬品を使わない自然な防虫法として、またアレルギー対策やエコロジーの観点から再評価されています。

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古代エジプトから江戸の町まで——蚊帳の長い歴史

蚊帳の起源は驚くほど古く、古代エジプトまで遡ります。伝承によれば、あのクレオパトラ7世(紀元前69-30年)が細かい亜麻布製の蚊帳を使っていたと語られます。ナイル川流域は蚊の発生地でもあり、王族にとって蚊帳は必需品だったのでしょう。

その後、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパ列強が熱帯地方へ進出する際、蚊帳は不可欠な装備となりました。特に1859年から1869年にかけて建設されたスエズ運河の工事では、作業員の健康を守るため大量の蚊帳が使用されたという記録が残っています。

日本への伝来と庶民への普及

日本には奈良時代から平安時代にかけて中国から伝わったと考えられています。当初は絹製の高級品で、貴族や上級武士など限られた階層のみが使用していました。

『枕草子』にも蚊帳とみられる帳の記述があり、平安貴族の夏の必需品だったことがうかがえます。

庶民に広く普及したのは江戸時代です。特に元禄年間(1688-1704年)には、近江商人の西川甚五郎が改良した「近江蚊帳(八幡蚊帳)」が江戸で大ヒットしました。それまでの茶色や白の蚊帳に対し、西川家は鮮やかな萌葱色(もえぎいろ、黄緑色)の麻網に紅色の縁取りを施したデザインで差別化。このブランド戦略は大成功を収め、「近江蚊帳」は江戸庶民の憧れとなったのです。

江戸時代後期の浮世絵師・岳亭春信(がくてい しゅんしん、1770年頃-1844年)とされる人物が描いた『蚊帳売り図』には、天秤棒で蚊帳を担いで売り歩く行商人の姿が描かれています。初夏になると「蚊帳〜、蚊帳〜」という掛け声とともに蚊帳売りが町を歩く光景は、江戸の夏の風物詩だったのです。

日本文化に根付いた蚊帳

蚊帳は単なる生活用品を超えて、日本の文化にも深く浸透しました。

俳句では夏の季語として定着しており、松尾芭蕉、与謝蕪村、正岡子規など多くの俳人が蚊帳を詠んでいます。「蚊帳吊るす 音のなつかし 夕間暮れ」など、蚊帳には日本の夏の情緒が込められているのです。

また「蚊帳の外」という慣用句は、仲間から除外されている状態を表します。みんなが蚊帳の中で涼しく眠っているのに、一人だけ外で蚊に刺されている—…

そんなイメージから生まれた表現です。

終わりに

便利さを追求する現代社会では、蚊帳のような「古い」ものは忘れ去られがちです。しかし、その裏には化学薬品への依存、エネルギー消費の増大、アレルギーの増加といった弊害も生まれています。

昔の人々の知恵が詰まった蚊帳。そのシンプルで自然に寄り添った暮らし方には、これからの時代を生きるヒントが隠されているのかもしれません。

最後までお付き合い下さり有難う御座います。

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レトロな夏関連記事はこちらです‼️

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ご回答をありがとうございました。 ✨

【昭和レトロ】ホーロー看板のアイキャッチ効果|記憶に刻まれた失われた街の風景を読み解く

文化を読み解こうとした時に流行した物や人々の生活を知る材料として、その時代の広告を見る事で世相を伺う事ができますよね、 昨今 昭和retroとして様々なジャンルで人気があるようですが、今回は琺瑯看板(ほうろうかんばん)を取り上げて見ようと思います。 私の幼少の頃は道沿いの民家の壁や街中の店先には、会社のロゴや宣伝文句を打ち出した 様々なホーロー看板が掲げてありました、 当時はと言うと建物の壁色も今みたいにカラフルなものは少なく景観とすれば木の材質のこげ茶色というのが街全体の眺望でした、そこにカラフルなホーロー看板を貼る事で殊更に目を惹く広告の意味を成したのです。

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昭和の街を駆けた小さな相棒──ダイハツ・ミゼット物語

「超小型」に込められた大きな夢
1957年(昭和32年)、戦後復興の熱気がまだ冷めやらぬ日本の街角に、愛嬌たっぷりの小さな三輪車が颯爽と登場しました。その名も『ミゼット』──英語で「超小型のもの」を意味する言葉です。
鳥の嘴を思わせる丸みを帯びたノーズの下には、ちょこんと1輪のタイヤ。まん丸のヘッドライトは、まるで生き物のように街を見つめています。小さなボディから響く「ブルブル」というエンジン音は、どこか頼りなげでありながら、聞く者の心を和ませる不思議な魅力がありました。
ダイハツ工業が世に送り出したこの三輪トラックは、単なる商用車ではありませんでした。それは、高度経済成長期を支えた庶民の「夢を運ぶ相棒」だったのです。
オート三輪が時代を駆ける

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「1960年代の風が吹く──デトロイトの一軒家から世界を変えた『モータウン・サウンド』の軌跡と黄金時代」

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宮沢賢治のイーハトーブ

画像はイメージです

こんにちは‼️

retro  flamingoへようこそ、

今回は  宮沢賢治のファンタジーの世界感を考察して見ようと思います。

私の子供の頃に国語の授業で「雨ニモマケズ/風ニモマケズ」
という詩を教わったのですが、当時はその内容を深く理解はできませんでした。

人の為に尽くしたいというのは分かるのですが、ストイックすぎる内容に不思議さを感じたのです。

しかしそのフレーズは忘れる事なく今も憶えています。
現代においても宮沢賢治作品のユニークな発想は時を超えてインパクトを与え続けているのです。

『雨ニモマケズ』

この詩が発表されたのは宮沢賢治の没後1年を記念した1934年9月21日付の「岩手日報」でした、

この有名な詩は没後に発見された遺作で、1931年秋に宮沢賢治の使用していた黒い手帳に鉛筆で記されており、冒頭部のページに「11.3.」と記されてあることから同年11月3日に執筆したと推定されています。

この手帳が発見されたのは、賢治が亡くなつた翌1934年2月16日東京・新宿で開催さた「宮沢賢治友の会」の席上で賢治の弟・宮沢清六が賢治の遺品である大きな革トランクを持参し、その中にあった手帳を参加者に回覧した際に見つけられたのでした。

このような経緯により見つけられたエピソードを見ると偶然というか導きのような素敵な感覚をおぼえます。

宮沢賢治は詩人・童話作家でその作品はファンタジーに溢れ読む側もイマジネーションが広がり現実を忘れるような夢の世界にいざなわれます。

そこには『イーハトーブ』という宮沢賢治の独特の造語により作られるオリジナルの理想郷があるからなのでしょう。

何より宮沢賢治にまつわるとても優しさに長けた人物像が語られ、鉱物愛好家で石を集め「石コ賢さん」という愛称でよばれ…
又 音楽好きで暇を見つけてはレコードを買い求める為、賢治の行きつけの楽器店はイギリスのポリドール・レコードから感謝状を贈られたといいます。

賢治の音楽好きはベートーベン・ドヴォルザークを好み、自らも楽曲を制作する程でした。

他にも沢山の逸話が残る 『宮沢賢治』

37年の生涯でこれだけのエピソードと名作の数々を残した功績には驚かされます。その行動に現れる好奇心と貪欲さには偉人たる人の凄みをかんじます。

画像はイメージです

宮沢 賢治 新編 銀河鉄道の夜

数多い中から作品をあげるとすると…
迷う所ですが…やはり  『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』でしょうか⁉︎

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宮沢 賢治 注文の多い料理店 (新潮文庫)

行き先の解らないストーリーのハラハラ感と読み終えて感じる独特の世界観は、

その物語に対する自分なりの解釈への模索が何かのヒントに繋がるかも知れません。

是非一度は読んでおきたい本です。

今回『宮沢賢治のイーハトーブ』

如何でしたでしょうか⁉️

楽しんで頂けたら嬉しいです、

この記事があなたの明日のスパイスとなれば幸いです。

retro  flamingoでした。

書籍のもたらす幸福になる効果記事はこちら‼️

【東京tower 】誰もが希望と夢に日々を費やした時代の日本のシンボル。

昨今…日本のランドマーク  …と言うと多数の観光名所の中から色々と浮かぶものがありますけれど…

今やランドマークタワーと言えばスカイツリーが一番に上がる存在となりました。

あんなにも高い建物が着々と積み上がる光景は壮観と言う他ありません。

その建築技術の高さには脱帽させられるばかりです。

私は 高所恐怖症でして…   高所で作業をされる鳶職の職人さんの使命感と気概には感動し尊敬してやみません。

日本の文化における近代化の歴史に貢献しているのですから尊いですよね〜。

それで今回のテーマではあえてスカイツリーをさしおいて、昭和時代の人々の集大成であり、日本の活力の証とも言える『東京tower』にフォーカスして深堀りしていきたいと思います。

日本の高度経済成長期(昭和33年〜)から半世紀以上に渡り東京の観光名所として君臨し 、建設された当時はパリのエッフェル塔の高さを超えるとされ、世界一の電波塔として戦後復興の日本の象徴として数多くの映画や小説の舞台となってきた、「東京タワー」。

そう…戦後の昭和時代…

『明日は今日より良くなる  前向きに生きる事ができる』と、多くの人々が思えた時代でした。

そのような時代背景と国民一人一人の心が一つとなり、懸命に世相を構築した人々の誠実さが垣間見れる日本のシンボル的存在です。

東京tower建設の経緯

  1. 当時の放送事業各社は個々に電波塔を持っており自局の塔から放送を行っていました。しかしその高さは153−177m位だった為放送電波は半径70km程度しか届きませんでした。

電波の充実を図る為には鉄塔の増設デシタが、鉄塔の乱立は都市景観をそこなということから電波塔を一本化する総合電波塔を建設することになったのです。

その構想はパリのエッフェル塔を超える世界最大の塔を造り、そこに展望台を設けて集客すれば、建設費は10年で元が取れると言うものでした。

構想・設計・建設と各方面の重鎮による計画された仕事は時代の集大成を形にする壮大なプロジェクトでした。

着工から1年3ヶ月後(543日間)が経過した1958年12月23日。

延べ人員219,335人の職人を投与して完成した鉄塔本体の最上部には建設に携わった96人の技術屋の名前が刻まれた金属製の銘板が据えられています。総工費は当時の金額で30億円でした。

夜はライトアップされた東京タワー アートパネル 日本の写真 ポスターHD ウォールアート 部屋飾り キャンバス 絵画 ベッドルーム ポスター リビング 壁の絵12x18inch(30x45cm)

『東京タワー』
その名称は公募によって決定されました。

その応募数は86,269通も寄せられました。

その中で 一番多かった名称は「昭和塔」(1,832通)
続いて「日本塔」 そして「平和塔」でした。

他にも沢山の応募名称がありましたが…

名称審査会に参加した、徳川夢声(とくがわ むせい・日本の弁士、漫談家、作家、俳優)が、

「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありません」と推挙し…

その結果1958年10月9日に『東京タワー』に決定したのです。

当時の日本国民の経済成長期のバイタリティーは凄みかありました。その建立に人々は耳目を集めたものでしょう。

歌謡曲・小説・映画などに取り上げられ今尚人気は不動のものとして存在意義を呈しています。

ジオクレイパー東京タワー 約H140×W60×D60mm ABS 製彩色済みスケールモデル製

東京タワー

その建設の歴史背景から、今に伝えるものは、日本人の皆がなんのためらいもなく希望と夢を心に日々を駆けていた…そんな時代の記憶…

ノスタルジーを称える大切なモニュメントなのです。

終わり

最期までお付き合い頂きありがとました。

この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。

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