「ピンクは男の子、ブルーは女の子」の色だった時代 ― 知られざるジェンダーカラーの歴史

「ピンクは女の子の色、ブルーは男の子の色」

私たちの多くが当たり前のように受け入れているこの常識。しかし、この色の組み合わせが定着したのは、実はここ数十年のことに過ぎません。それどころか、100年ほど前には全く逆の考え方が一般的だったのです。

1884年、後にアメリカ大統領となるフランクリン・D・ルーズベルトの幼少期の写真があります。そこに写る2歳の男児は、ドレスとスカートを身につけています。現代の私たちから見れば驚くべき光景ですが、当時これは全く普通のことでした。

では、この「常識」はいつ、なぜ生まれたのでしょうか?

その答えは、想像以上に複雑で興味深い歴史の中にあります。

白いドレスの時代 ― 性別に関係なく同じ服を着ていた子どもたち

19世紀以前、赤ちゃんや幼児の服装に性別による区別はほとんどありませんでした。18世紀から19世紀初頭にかけて、すべての赤ちゃんは白い服を着用していました。

これには実用的な理由がありました。汚れやすい赤ちゃんの服は頻繁に洗濯する必要がありますが、当時の技術では漂白剤で汚れを落とせる白い綿の服が最も実用的だったのです。色物の服は色落ちや変色のリスクがあり、赤ちゃん服には不向きでした。

さらに驚くべきことに、男の子も女の子も区別なく6〜7歳までドレスを着用していました。ビクトリア朝時代には「ブリーチング」と呼ばれる儀式があり、男児が初めてズボンを履くことは一種の成人式のような意味を持っていました。

色による性別の区別が始まったのは、19世紀半ば以降のことです。しかし、その色の割り当ては現代とは異なっていました。

「ピンクは男の子、ブルーは女の子」― 1918年の衝撃的な記録

1918年、アメリカの業界誌『Infants Department』は、当時の色の常識についてこう記録しています。

「一般的に受け入れられているルールは、男の子にはピンク、女の子にはブルーです」

現代の私たちからすれば驚くべき記述ですが、当時はこれが「常識」だったのです。では、なぜそのような色の割り当てだったのでしょうか?

その理由は、各色が持つとされた象徴的な意味にありました。ピンクは赤に近い色として「決定的で強い色」と考えられ、男の子により適しているとされました。赤は「情熱・力強さ・活動的」の象徴だったからです。

一方、ブルーは「繊細で可憐な色」とされ、女の子により美しい色と考えられていました。青は聖母マリアを象徴する色でもあり、女性的な美徳と結びついていたのです。

1927年には『Time』誌が全米の主要百貨店を対象に調査を行いました。ボストンのFilene’s、ニューヨークのBest & Company、シカゴのMarshall Fieldsなどの有名店が「男の子にはピンク」を推奨していました。ただし、他の4店舗は正反対の推奨をしており、当時はまだ統一された基準がなかったことがわかります。

色彩研究の専門家であるPantone Color InstituteのエグゼクティブディレクターLeatrice Eisemanは、「この時代、色の意味は地域や店舗、さらには個々の家庭によっても異なっていました」と説明しています。

いつ、どのように逆転したのか? ― 色の意味が変わった転換期

では、いつ現代のような「ピンクは女の子、ブルーは男の子」という常識が生まれたのでしょうか? この問いに対する答えは、研究者の間でも議論が分かれています。

1940年代の変化

第二次世界大戦後、徐々に「ピンクは女の子、ブルーは男の子」という考え方が広まり始めました。この変化には、メーカーと小売業者の戦略的マーケティングが大きく影響していたと考えられています。

学術的な議論

メリーランド大学の歴史学教授Jo B. Paoletti氏は、40年以上にわたってジェンダーと服装の関係を研究してきました。彼女の2012年の著書『Pink and Blue: Telling the Boys From the Girls in America』では、19世紀末から20世紀初頭にかけての時代は「一貫性のなさ」が特徴だったと指摘しています。完全な色の逆転があったわけではなく、地域や媒体によってバラバラだったというのです。

一方、ニューメキシコ大学の心理学者Marco Del Giudice博士は、2012年から2017年にかけて500万冊以上の書籍データベースを分析し、異なる結論に達しました。彼の研究によれば、歴史的な文献の大多数は「青は男の子、ピンクは女の子」という記述をしており、逆転の証拠はほとんど見つからなかったといいます。

ただし、新聞や雑誌などのメディアでは逆転の記録も34対28とほぼ拮抗しており、Del Giudice博士は「完全な逆転ではなく、不一致の時代があった」と結論づけています。

つまり、真実は「ある時点で劇的に逆転した」というよりも、「20世紀前半は一貫性がなく、徐々に現在の形に収束していった」ということのようです。

ベビーブーム世代が固めた「ピンク&ブルー」の常識

1940年代から1960年代にかけて、アメリカではベビーブーム世代(1946-1964年生まれ)が誕生しました。この時期、性別による服装の区別は非常に厳格化されました。男の子は父親と同じような服装をし、女の子は母親と同じような服装をすることが強く期待されました。女の子は学校でもドレスの着用が義務付けられることが一般的でした。

ユニセックスの時代

しかし、1960年代後半から1970年代にかけて、状況は再び変化します。ウーマンリブ運動の影響を受け、性別による服装の違いに疑問が投げかけられるようになったのです。

ジョンズ・ホプキンス大学のジョン・マネー博士は「ジェンダーは社会的・環境的に学習される」という研究を発表し、多くの親たちが子どもの服装に性別による差をつけることに慎重になりました。

「男の子のような服装をすれば、女の子も活動的になれる」という考え方が広まり、性別に関係ないユニセックスな子ども服が流行しました。1970年代には、Sears社のカタログに2年間、ピンクの幼児服が一切掲載されなかったという記録もあります。

1985年以降:性別区分の再強化

しかし、1980年代半ばから状況は再び変わり始めます。Paoletti教授は、その転換点としていくつかの要因を挙げています。

最も大きな影響を与えたのは、出生前診断、特に超音波検査の普及でした。出産前に赤ちゃんの性別がわかるようになったことで、性別に特化した商品を購入する文化が生まれたのです。

また、企業側のマーケティング戦略も重要な役割を果たしました。「個別化すればするほど商品が売れる」という発見は、子ども用品業界を大きく変えました。第一子が女の子で第二子が男の子なら、すべての製品を買い替える必要が生まれます。ピンクのベビーカー、チャイルドシート、おもちゃなど、高額商品にまで性別による色分けが拡大していきました。

興味深いのは、この変化を受け入れた世代の背景です。1980年代に親となった人々の多くは、第二波フェミニストの娘世代でした。彼女たちは幼少期にピンクやフリル、バービー人形を禁じられて育ったことへの反動から、「ジェンダー平等は女性らしさの否定ではない」という新しい視点を持っていました。フェミニストであっても「ピンクを着る女性外科医」を肯定する価値観が生まれたのです。

Z世代が変える未来 ― ジェンダーニュートラルの再来

2010年代後半から現在にかけて、私たちは再び大きな変化の時代を迎えています。

Z世代(1997-2012年生まれ)の価値観は、前の世代とは明確に異なります。Pew Research Centerの調査によれば、Z世代の51%が「性別は男性と女性の2つ以上ある」と回答しており、これはミレニアル世代の35%と比べて大幅に高い数値です。

ファッション業界もこの変化に対応しています。ノードストロームやサックス・フィフス・アベニューなどの高級百貨店は、ジェンダーニュートラルセクションを導入し始めました。

ファッション工科大学(FIT)のShawn Grain Carter教授は、「ファッションは世代の文化と政治信念を映し出す鏡です。Z世代は性別の二元論からの脱却を求めており、ファッション業界はそれに応えています」と説明しています。

興味深いのは、子どもの色の認識に関する研究です。子どもは2歳頃から性別の概念を認識し始め、2歳半には「女の子はピンク」という先入観を獲得します。男の子は特にピンクを避けるようになります。これは生まれつきの好みではなく、広告、メディア、おもちゃ業界からの影響によって形成されるものです。

日本への輸入とその影響 ― 欧米の価値観がもたらしたもの

日本における「ピンクは女の子、ブルーは男の子」という常識も、実は戦後の欧米文化の流入とともに定着したものと考えられます。

日本は欧米ほどウーマンリブ運動の影響を受けなかったため、1980年代以前から継続してこの色分けが存在していた可能性もあります。しかし、いずれにしても「たった2〜3世代の歴史」に過ぎないのです。

現在、この色分けはトイレのマークや更衣室など、日常生活の様々な場面に深く浸透しています。しかし近年、ランドセルの色が多様化していることは、良い兆候と言えるでしょう。かつては男の子は黒、女の子は赤というのが当たり前でしたが、今では紫、緑、茶色など、様々な色のランドセルを見かけるようになりました。

私たちが学ぶべきこと ― 「当たり前」は変わり続ける

この歴史から、私たちは何を学ぶべきでしょうか?

まず明らかなのは、「ピンクは女の子、ブルーは男の子」は生物学的な真実ではなく、商業的・文化的に構築された概念だということです。わずか100年足らずの間に、色の意味は少なくとも2度大きく変化しました。

「生まれた時からある常識」は、必ずしも「人類史上ずっと続いてきた真実」ではありません。私たちが当たり前だと思っていることの多くは、実は特定の時代、特定の文化における一時的な合意に過ぎないのです。

この認識は、子どもの教育においても重要です。子どもに「性別に適した色」を押し付けることは、本当に必要なことでしょうか? 消費主義が作り出した固定観念を、無意識のうちに次世代に引き継いでいないでしょうか?

色の好みは極めて個人的なものです。ピンクが好きな男の子がいてもいいし、青が好きな女の子がいてもいい。むしろ、色の多様性を自由に試せる幼少期こそ、子どもたちは本当に好きな色を見つけられるはずです。

Jo B. Paoletti教授は、長年の研究を通じてこう述べています。「現実の個人の世界では、すべてが白黒ではないのです」

歴史を知ることで、私たちは現在の「常識」を相対化し、より柔軟な視点を持つことができます。次世代が自分らしく色を選べる社会へ。それは、決して新しい挑戦ではなく、むしろ歴史の繰り返しなのかもしれません。

色に性別はありません。あるのは、私たち一人ひとりの個性と好みだけです。この単純な真実を、私たちは歴史から学び直す必要があるのではないでしょうか。

最後までお付き合い頂きまして有難う御座います

又次の記事でお会い出来ると嬉しいです。

「砂糖は「薬」だった?」薬局で売られていた”白い粉”の知られざる歴史〜

もしタイムスリップして中世ヨーロッパの街を歩いたら、あなたは奇妙な光景を目にするでしょう。市場で砂糖を探しても、八百屋にも食料品店にもありません。砂糖があるのは、薬草や香辛料が並ぶ「薬局」の棚です。店主は砂糖を慎重に量り売りし、医師の処方箋を持った裕福な患者が、高価な薬として買い求めていきます。

信じられないかもしれませんが、19世紀頃まで、砂糖は「薬」として扱われていました。今では誰もが手軽に買える砂糖が、かつては王侯貴族だけが口にできる高級医薬品だったのです。この「白い結晶」をめぐる人間の欲望と壮大な勘違いが、世界の食文化を根底から変えていきました。

もしタイムスリップして中世ヨーロッパの街を歩いたら、あなたは奇妙な光景を目にするでしょう。市場で砂糖を探しても、八百屋にも食料品店にもありません。砂糖があるのは、薬草や香辛料が並ぶ「薬局」の棚です。店主は砂糖を慎重に量り売りし、医師の処方箋を持った裕福な患者が、高価な薬として買い求めていきます。

信じられないかもしれませんが、19世紀頃まで、砂糖は「薬」として扱われていました。今では誰もが手軽に買える砂糖が、かつては王侯貴族だけが口にできる高級医薬品だったのです。この「白い結晶」をめぐる人間の欲望と壮大な勘違いが、世界の食文化を根底から変えていきました。

第1章

古代インドから始まった「甘い万能薬」の誕生

砂糖の物語は、紀元前のインドから始まります。サトウキビの搾汁を煮詰めて結晶化する技術が確立されると、砂糖は即座に医療の世界に取り込まれました。古代インドのアーユルヴェーダ医学では、砂糖は単なる甘味料ではなく、れっきとした「薬剤」として分類されていたのです。

この認識は、イスラム世界を経由してヨーロッパへと広がります。中世のアラビア語医学書には、砂糖を使った様々な治療法が記されていました。興味深いのは、イスラム世界でも長い間、砂糖は主に薬用として使われ、日常的な甘味料としての使用は祭礼や特別な宴席に限られていたという事実です。「甘さ」は、それほど特別で神聖なものだったのです。

中世ヨーロッパの医師たちは、アラビア医学を熱心に学び、砂糖の「驚くべき効能」を信じるようになります。当時の医学理論では、砂糖は体を温める性質を持ち、「冷え」や肺の不調、消化不良に効くとされました。さらに、苦い薬草の味を隠す「コーティング材」としても重宝され、砂糖シロップや糖衣錠の原型のようなものが作られていました。

ここで驚くべき事実:中世の医師たちが砂糖を推奨した理由の一つは、「高価だから効くはずだ」という論理でした。当時、薬の価値はしばしば価格と結びつけられていたのです。金や真珠の粉を薬に混ぜることもあった時代ですから、高価な砂糖もまた「貴重だから効く」と信じられたのです。

第2章

ヨーロッパ貴族が熱狂した「砂糖医療」の実態

12世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパの上流階級では砂糖を使った医療が大流行します。医師たちは「砂糖入りの療養飲料」や「砂糖シロップ」を次々と処方し、患者たちは高額な治療費を支払ってこれらを求めました。

しかし、ここで人間の欲望が顔を出します。「薬だから体に良い」という大義名分のもと、上流階級の食卓では砂糖を山盛りにした豪華なデザート宴会(シュガー・バンケット)が開かれるようになったのです。医療と贅沢の境界線は、急速にあいまいになっていきました。

想像してみてください──重厚な宮殿の広間で、砂糖で作られた彫刻や精巧な細工菓子が並べられ、貴族たちが「これは健康のためだ」と言い訳しながら、競うように甘いものを口にする光景を。現代の私たちが「体に良いから」とサプリメントを過剰摂取するのと、本質的には同じかもしれません。

見逃せないポイント:16世紀のイギリス女王エリザベス1世は、砂糖を大量に摂取したことで知られています。彼女の歯が真っ黒になっていたという記録が残っており、これは砂糖による虫歯が原因でした。しかし当時、黒い歯はむしろ「砂糖を買える富の象徴」として、上流階級の間で羨望の対象だったのです。

第3章

遥か東の島国・日本にも届いた「薬としての砂糖」

日本への砂糖伝来は、8世紀頃、遣唐使によって中国から持ち込まれたのが最初とされています。しかし、その価格は想像を絶するものでした。輸入に頼る超高級品だったため、主な用途は「薬」と「仏前への供え物」に限られていたのです。

奈良・平安時代の日本人にとって、砂糖は文字通り「異世界の甘さ」でした。それまでの甘味といえば、蜂蜜や甘葛(あまづら:山ぶどう系の樹液を煮詰めたもの)でしたから、純度の高い砂糖の結晶がもたらす甘さは、まさに次元の違う体験だったでしょう。

宮中や貴族の間では、砂糖は漢方薬の一部として、あるいは「滋養強壮」の妙薬として扱われました。病人や虚弱体質の人に与える、現代でいう栄養剤のような位置づけです。一般庶民は一生口にすることのない人も多く、「砂糖」という言葉さえ知らない人がほとんどでした。

驚きの事実:室町時代の文献には、将軍家が重病の際に「砂糖湯」を服用したという記録が残っています。砂糖をお湯に溶かしただけのものですが、これが最高級の医療だったのです。現代の感覚では信じがたいことですが、当時の人々にとって砂糖は命を救う可能性のある貴重な薬だったのです。

第4章

南蛮貿易が起こした革命──「薬」から「お菓子」への大転換

日本の砂糖史が劇的に変わるのは、16世紀の南蛮貿易からです。ポルトガル人やスペイン人が持ち込んだのは、砂糖そのものだけでなく、イスラム世界経由で発展した砂糖菓子の製法でした。

カステラ、コンペイトウ、ボーロ、有平糖──これらの南蛮菓子は、戦国武将たちを魅了しました。織田信長がイエズス会宣教師から金平糖を献上された時の驚きと喜びは、宣教師の報告書に詳しく記されています。これらの菓子は、キリスト教布教の重要な「武器」でもあったのです。

江戸時代に入ると、砂糖の輸入量は徐々に増加し、上流階級の茶会では砂糖を使った和菓子がステータスシンボルになっていきます。練り切り、羊羹、最中──日本独自の繊細な和菓子文化が花開くのは、この時期です。

しかし、ここで注目すべきは、江戸時代の砂糖がまだ「両義的」な存在だったことです。武士や豪商は茶会で和菓子の甘さを楽しみながらも、それを「教養」や「財力」のアピールとして位置づけていました。一方、庶民にとっては依然として高価で、「薬屋で少しだけ買って、病人のためにとっておく」「お祝いの日だけ砂糖入りの料理を作る」といった、ご褒美兼お守り的な使い方が主流でした。

知られざるエピソード:江戸時代の医学書『和漢三才図会』(1712年)には、砂糖について「性は平、味は甘く、毒はなし。肺を潤し、中を和らげ、痰を消し、酒毒を解く」と記されています。つまり、お菓子として楽しまれるようになった後も、砂糖の「薬効」への信仰は続いていたのです。

第5章

大量生産が生んだ悲劇──「甘い薬」から「甘い毒」へ

18世紀、砂糖の歴史は大きな転換点を迎えます。カリブ海や南米のプランテーションで砂糖の大量生産が始まったのです。しかし、その背後には人類史上最も暗い一章がありました──奴隷制です。

数百万人のアフリカ人が奴隷として連れて来られ、過酷な労働を強いられました。「白い金」と呼ばれた砂糖は、文字通り人間の血と涙で作られていたのです。皮肉なことに、ヨーロッパの人々が「健康のため」と信じて口にしていた砂糖は、植民地では無数の命を奪っていました。

大量生産により、19世紀には砂糖の価格が急激に下がります。かつて王侯貴族だけのものだった砂糖は、労働者階級の食卓にも並ぶようになりました。イギリスでは紅茶に砂糖を入れる習慣が広まり、砂糖は完全に「日常品」となったのです。

そして20世紀に入ると、科学の進歩が砂糖の真実を明らかにしていきます。虫歯、肥満、糖尿病、心臓病──砂糖の過剰摂取と様々な健康問題との関連が次々と指摘され始めたのです。

衝撃の転換:1942年、アメリカ医学会は「砂糖摂取を制限することは公衆衛生のために望ましい」という勧告を出しました。かつて医師が処方していた「薬」が、今度は医師が制限を呼びかける「害」になったのです。現代では、砂糖は「最も邪悪な分子」とまで呼ばれ、健康系メディアでは悪役の代表格として扱われています。

おわりに

砂糖という鏡に映る人間の姿

砂糖の歴史を振り返ると、一つの明確なパターンが見えてきます。

最初は「崇高な薬」として崇められ、次に「富と権力の象徴」となり、やがて「庶民の楽しみ」に変わり、最後には「健康を脅かす悪役」として非難される──この変遷は、砂糖そのものの性質が変わったからではありません。人間の側が、砂糖に対する認識と欲望を変え続けてきたのです。

中世の医師たちが砂糖の効能を過信したのも、江戸時代の将軍が砂糖湯を妙薬と信じたのも、現代の私たちが砂糖を「毒」として避けようとするのも、本質的には同じです。私たちは常に、「甘さ」に何か特別な意味を見出そうとしてきました。

興味深いのは、砂糖に対する態度の変化が、その時代の社会構造を映し出していることです。砂糖が薬だった時代は、医療が特権階級のものだった時代。砂糖が贅沢品だった時代は、貧富の格差が極端だった時代。砂糖が悪者になった現代は、過剰消費と健康への執着が並存する時代です。

最後に考えるべきこと:私たちは今、砂糖を「控えるべきもの」として扱っていますが、100年後の人々は私たちの態度をどう見るでしょうか?「21世紀の人々は砂糖を敵視しすぎていた」と笑うかもしれません。あるいは「もっと早く気づくべきだった」と言うかもしれません。

砂糖の歴史が教えてくれるのは、人間は常に確信を持って間違えるということです。そして、その確信こそが歴史を動かしてきたのです。

次にあなたがコーヒーに砂糖を入れる時、あるいは意識的に砂糖を避ける時、思い出してください。この小さな白い結晶をめぐって、かつて医師が処方箋を書き、王が財宝のように保管し、奴隷が命を落とし、そして現代人が罪悪感を抱いていることを。

甘さの裏側には、いつも人間の欲望と勘違いの歴史が隠れているのです。