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「出典:Wikimedia Commons」
先崎 彰容 未完の西郷隆盛: 日本人はなぜ論じ続けるのか (新潮選書)
第1章|私たちが知っている「西郷隆盛」は本物か?
上野公園を訪れたことがある人なら、あの銅像を目にしたことがあるだろう。犬を連れ、穏やかな表情で立つ巨漢の男。
これが私たちの知る「西郷隆盛」だ。
教科書は彼をこう教える。明治維新の立役者、温厚な人格者、そして悲劇的な最期を遂げた英雄。ドラマや小説は、さらにその像を美化し続けてきた。
だが、ここで一つの疑問が浮かぶ。
私たちは本当に西郷隆盛を知っているのだろうか?
実は、西郷隆盛の確実な写真は一枚も存在しない。同時代の大久保利通や木戸孝允の写真が多数残っているにもかかわらず、だ。
上野の銅像を見た西郷の妻は「うちの人はこんな顔ではない」と言ったという逸話さえある。
さらに奇妙なのは、西郷の死後に広まった数々の説だ。「実は生きている」「ロシアに亡命した」「戦場にいたのは替え玉だった」―
これらは単なる都市伝説なのか…それとも何かを隠すための煙幕なのか。
本記事では、史実に基づきながら、後世の脚色を一枚ずつ剥がしていく。そして浮かび上がるのは、教科書が決して語らない「もう一人の西郷隆盛」の姿である。
第2章|史料が語る「確かな西郷隆盛」
2-1 確実に確認できる基本史実
まず、確実にわかっていることから整理しよう。
西郷隆盛は1828年、薩摩藩の下級武士の家に生まれた。身長は約180cm、体重は100kgを超えたとされ、当時としては規格外の巨体だった。彼の人生を決定づけたのは、藩主・島津斉彬との出会いである。斉彬は西郷の才能を見抜き、側近として重用した。
1858年、斉彬の急死後、西郷は失意のあまり、僧・月照とともに錦江湾に入水自殺を図る。月照は死亡したが、西郷だけが奇跡的に蘇生。しかしこの事件により、彼は奄美大島へ流罪となった。
その後、藩政の変化により復帰を果たし、幕末の動乱期には薩長同盟の成立、戊辰戦争の指揮など、明治維新の中心的役割を担った。
2-2 同時代史料に残る西郷の性格
西郷が残した書簡や、同時代人の証言から浮かび上がる人物像は、一般的なイメージとは微妙に異なる。
確かに彼は「義」を重んじた。だが同時に、極めて政治的な現実主義者でもあった。
例えば、幕府との交渉では強硬姿勢を貫く一方、薩摩藩内の権力闘争では巧みな立ち回りを見せている。
温厚さと苛烈さが同居する―これが史料から読み取れる本当の西郷像だ。彼は聖人でも、単純な武人でもない。矛盾を抱えた、極めて人間的な存在だったのである。
西郷隆盛 名作全集: 日本文学作品全集(電子版) (西郷隆盛文学研究会)
第3章|写真が語らない「西郷隆盛の不在」
3-1 なぜ西郷隆盛の確実な写真は存在しないのか
ここで最大の謎に直面する。なぜ西郷隆盛の写真は一枚も残っていないのか?
明治初期、写真技術はすでに日本に普及していた。大久保利通の写真は複数枚現存し、木戸孝允に至っては洋装・和装両方の写真が残っている。同じ明治政府の重鎮でありながら、西郷だけが写真に写っていないのは極めて不自然だ。
いくつかの説がある。
一つは、西郷本人が写真を嫌ったという説。彼は「自分の姿を残すことを好まない」性格だったとされる。しかし、政府の要職にあった人間が、公的な記録すら残さないというのは考えにくい。また、当時の精神文化という側面も見逃せない。

幕末から明治初期にかけて、武士の間には「写真を撮られると寿命が縮まる(魂が抜かれる)」という迷信が根強く残っていた。特に保守的な薩摩武士の間ではその傾向が強く、西郷もまた、文明の利器に対して生理的な忌避感を持っていた可能性がある。加えて、実務的な理由として「暗殺への警戒」も挙げられる。常に命を狙われる立場にあった彼にとって、自分の正確な容貌が世に知れ渡ることは、防犯上のリスクでもあったのだ。
もう一つは、西南戦争後の政治的配慮だ。「逆賊」として死んだ西郷の写真を残すことは、明治政府にとって都合が悪かった可能性がある。実際、西郷の名誉回復が行われるのは死後12年も経ってからのことだ。
3-2 現存する「西郷像」の出所
では、私たちが知っている西郷の顔はどこから来たのか?
有名な肖像画は、イタリア人画家キヨッソーネが、西郷の親族や知人の証言を元に描いたものだ。つまり、誰も本人を見ていない状態で作られた想像図である。
上野の銅像も同様だ。制作時、西郷の弟・西郷従道の体型を参考にし、顔は別の親族の証言を元に作られた。
冒頭で触れた「うちの人はこんな顔ではない」という妻の発言は、この銅像を指している。
つまり、私たちが「西郷隆盛」だと信じている顔は、後世の人々が作り上げた合成イメージに過ぎないのだ。
第4章|フルベッキ写真とは何か?
4-1 フルベッキ写真の概要
ここで、もう一つの謎に触れなければならない。「フルベッキ写真」である。
この写真は1860年代後半、長崎で撮影されたとされる集合写真だ。
中央にはオランダ人宣教師グイド・フルベッキが座り、その周囲を40名以上の日本人が囲んでいる。
問題は、この写真に「明治政府の要人たちが写っている」という説が存在することだ。
西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、岩倉具視―後の明治維新を担う面々が、幕末のこの時期に一堂に会していたというのである。
もしこれが事実なら、歴史的に極めて重要な写真となる。そして、西郷隆盛の唯一の写真ということになる。

4-2 西郷隆盛は写っているのか?
結論から言えば、西郷隆盛はこの写真に写っていない。
フルベッキ写真に「西郷」とされる人物は確かに存在する。だが、史実との照合により、決定的な矛盾が明らかになっている。
まず、撮影時期の問題。この写真が撮影された1866年前後、西郷は薩摩で藩政に関わっていた。長崎にいた記録はない。
また、写真に写る「西郷」とされる人物の体格は、実際の西郷より明らかに小柄だ。
さらに決定的なのは、写真鑑定の結果である。専門家による分析では、この写真に写っているのは佐賀藩の藩校生徒たちであり、明治政府要人は一人も含まれていないことが確認されている。
つまり、フルベッキ写真は「歴史的ロマン」ではあるが、西郷隆盛の証拠にはならないのだ。
斎藤 充功 禁じられた西郷隆盛の「顔」 写真から消された維新最大の功労者: 写真から消された維新最大の功労者 (二見文庫)
第5章|「替え玉説」「生存説」はどこから生まれたのか
5-1 西郷生存説の起源
西郷隆盛は1877年9月24日、西南戦争の最終局面で自刃したとされる。だが、この死にはいくつもの疑問符がつきまとう。
最大の問題は、遺体確認の曖昧さだ。西郷の首は戦場で切り取られたが、腐敗が進んでおり、顔の判別が困難だったという。
身元確認は主に体格と傷跡で行われた。
この曖昧さが、様々な憶測を生んだ。
「戦場にいたのは替え玉で、本物の西郷は密かに脱出した」
「ロシアに亡命し、軍事顧問として活動している」
「清国に渡り、再起の機会を窺っている」
これらの説は、明治20年代まで民間で根強く信じられていた。政府が公式に否定声明を出したほどである。
5-2 フィクションと史実の境界線
なぜこれほど生存説が広まったのか。
一つには、明治政府が恐れた「西郷の影響力」がある。彼は死してなお、不平士族たちの精神的支柱だった。「西郷が生きていれば」という期待は、新政府への不満の受け皿となった。
もう一つは、民衆心理が生んだ英雄待望論だ。日本人は判官贔屓の文化を持つ。悲劇的に散った英雄が、実は生きていて復活を待っている―これは義経伝説や真田幸村にも見られる構造である。
この生存説を決定的な社会現象にまで押し上げたのは、当時の夜空に現れた「異変」だった。
西郷が自刃した1877年(明治10年)の9月、火星が約47年ぶりという大接近を果たし、夜空に異様なほど赤く、巨大に輝いたのである。この不気味な光を、民衆は「非業の死を遂げた西郷の魂が乗り移った星」―すなわち「西郷星(さいごうぼし)」と呼び、熱狂的に受け入れた。
当時の絵師たちは、この流行を逃さなかった。飛ぶように売れた錦絵(浮世絵)には、赤く燃える火星の中に、正装して椅子に座る西郷の姿や、あるいはかつての宿敵であった大久保利通と星の中で対峙する姿が鮮やかに描かれた。中には、西郷が星の中から双眼鏡で地上を見下ろし、再起の機会をうかがっているような構図まで存在した。「西郷は死んでいない、星になって私たちを見守っている」
写真という「静止した事実」を持たなかった西郷は、皮肉にもこの空想的な錦絵のビジュアルを通じて、民衆の心の中に「生きた英雄」として上書きされていったのである。それは科学的な天体現象を、祈りや希望という名の物語へと変換してしまう、当時の日本人が持っていた凄まじい想像力の発露でもあった。
これを見た民衆の間で「赤く輝く火星の中に、軍服を着た西郷の姿が見える」という噂が広まり、これを描いた浮世絵(錦絵)は爆発的に売れた。
「西郷星」と呼ばれたこの現象は、単なる天文現象を超え、英雄の死を受け入れられない人々の祈りや熱狂が投影された、まさに民衆心理の象徴だったのである。
だが、史料的には生存説は完全に否定されている。西郷の死は複数の証人によって確認され、埋葬地も特定されている。政府軍の記録、薩摩側の記録、第三者の証言、全てが一致しているのだ。
西郷隆盛は確実に1877年に死亡した。 これは動かしようのない事実である。
第6章|実像として浮かび上がる「もう一人の西郷隆盛」
6-1 革命家ではなく「武士の倫理」を貫いた男
では、本当の西郷隆盛とは何者だったのか。
彼は革命家ではなかった。むしろ、旧来の武士道を最後まで捨てられなかった男だったと言える。
明治政府は近代国家建設を目指した。中央集権、徴兵制、廃刀令―これらは全て、武士階級の特権を解体する政策だった。
大久保利通はこの方向性を強力に推進したが、西郷は根本的に同意できなかった。
西郷が求めたのは、武士の倫理を保ったままの改革だった。だが、それは時代の要請と真っ向から対立する。この矛盾が、彼を最終的に「反逆者」へと追い込んでいく。
6-2 なぜ彼は「反逆者」になったのか
西南戦争は、西郷自身が望んだ戦いではなかった可能性が高い。
鹿児島に帰郷した西郷は、学校を設立し、若者の教育に専念していた。だが、不平士族たちは西郷を「革命の旗印」として担ぎ上げようとした。政府の挑発もあり、状況は悪化の一途を辿る。
最終的に、西郷は戦いを選んだ。
だがそれは積極的な革命ではなく、自分を慕う者たちを見捨てられなかった結果だったのではないだろうか…
史料を読み解くと、西郷は開戦前から敗北を予期していた形跡がある。彼は勝つために戦ったのではなく、武士として死ぬために戦ったのかもしれない。
これが、英雄でも陰謀家でもない、極めて人間的な西郷隆盛の姿である。
第7章|英雄はどのように”作られた”のか
西郷の死後、奇妙なことが起きた。政府は彼を「逆賊」として扱いながらも、完全には否定しなかったのだ。
1889年、西郷は正式に名誉回復される。さらに1898年には上野公園に銅像が建立された。なぜ政府は、かつての反逆者を英雄として祀り上げたのか?
答えは、明治政府の政治的意図にある。
近代国家を建設する過程で、日本は国民統合のシンボルを必要としていた。
西郷は「理想の敗者」として最適だった。彼は政府に反抗したが、天皇に逆らったわけではない。武士道精神の体現者として描けば、国民教育の教材になる。
銅像、物語、教科書―これらを通じて、西郷隆盛は「作られた英雄」となった。
温厚で誠実、民を思う指導者。この像は、明治政府が必要とした西郷像であって、実在の西郷隆盛そのものではない。
最終章|西郷隆盛の「本当の姿」とは何だったのか
フルベッキ写真に西郷は写っていない。替え玉説も事実によって否定される。だが、これらの謎が否定されても、違和感は残り続ける。
なぜ西郷隆盛だけ写真が残っていないのか?
なぜ死後もこれほど多くの伝説が生まれたのか?
答えは明確だ。西郷隆盛という人物が、時代の狭間で引き裂かれた存在だったからである。
彼は武士として生まれ、武士として死んだ。だが生きた時代は、武士が消滅していく過渡期だった。彼の思想、価値観、生き方そのものが、近代国家日本には収まりきらなかった。
だからこそ、後世の人々は西郷を神格化し、謎に包まれ、様々な物語を付け加えていった。実像が見えないからこそ、人々は理想を投影できた。
西郷隆盛は聖人でも陰謀の主でもない。
彼は時代に適応できなかった、極めて人間的な、そして巨大な存在だった。その巨大さゆえに、後世の日本人は彼を「謎」にし続けることを選んだのかもしれない。
付録|なぜ日本人は西郷隆盛を”謎”にしたがるのか
最後に、一つの考察を加えたい。
西郷隆盛、源義経、坂本龍馬―日本の歴史には、死後に伝説化された人物が数多く存在する。彼らには共通の構造がある。
若くして、または悲劇的に死ぬ。
権力の中枢に到達しながら、そこから零れ落ちる。
死後、生存説や陰謀論が囁かれる。
これは日本人の精神構造と深く関わっているのではないか。完成された英雄より、未完の大器。勝者より、美しく散った敗者。日本人はこうした存在に強く惹かれる。
西郷隆盛もまた、この文脈に位置づけられる。
彼の「謎」は、意図的に作られ、維持されてきたのかもしれない。
真実の西郷隆盛は、写真のない、曖昧な存在だからこそ、永遠に語り継がれる。それが、日本人が選んだ「西郷隆盛」の姿なのである。
【結論】
西郷隆盛の本当の姿は、おそらく誰にもわからない。史料は限られ、写真は存在せず、証言は矛盾している。
だが、だからこそ私たちは問い続けるべきだ。教科書の英雄像を疑い、都市伝説を検証し、史実との距離を測り続けること。
その過程でこそ、「本当の西郷隆盛」に少しでも近づけるのではないだろうか。
英雄は作られる。
だが、その向こう側に、確かに生きた一人の人間がいた。
それを忘れないこと。それが、歴史を学ぶ本当の意味なのかもしれない。
終わり
最後までお付き合い頂きまして有難う御座います。
この記事があなたの明日のスパイスとなれば嬉しいです。
【参考文献】
∙ 『西郷隆盛全集』全6巻
∙ 猪飼隆明『西郷隆盛 西南戦争への道』
∙ 家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』
∙ 国立国会図書館デジタルコレクション「フルベッキ写真関連資料」
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