琥珀の間の謎 – ナチスが奪った”世界8番目の不思議”は今どこに?

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消えた宝物の伝説

想像してみてほしい。壁一面が琥珀で覆われ、金箔と宝石が煌めく部屋を。鏡に映る光が琥珀を通して温かなハニーゴールドに変わり、空間全体が黄金色の輝きに包まれる——。

これは単なる空想ではない。かつて実在した「琥珀の間」の光景だ。

6トンもの琥珀、100平方メートルの壁面を埋め尽くす宝石と金箔。その推定価値は1億4200万ドルから5億ドル、日本円にして最大555億円とも言われる。「世界8番目の不思議」と称賛されたこの部屋は、1945年、第二次世界大戦の混乱の中で忽然と姿を消した。

80年近くが経過した今も、その行方は謎のままだ。

琥珀の間、栄光の誕生

物語は18世紀初頭のプロイセン王国に始まる。

1701年、バロック建築の巨匠アンドレアス・シュリューターが、フリードリヒ1世のために壮大なプロジェクトを開始した。琥珀細工の名匠たちが腕を競い、数百万個もの琥珀片を緻密に組み合わせていく。琥珀は黄金よりも希少で、加工が極めて難しい。熱に弱く、割れやすい。それゆえに、完成した琥珀の間は芸術的価値において比類なきものとなった。

しかし、この宝物は完成前に持ち主を変えることになる。

1716年、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は外交的友好の証として、琥珀の間をロシアのピョートル大帝に贈呈した。こうして琥珀の間はサンクトペテルブルク近郊のエカテリーナ宮殿へと移された。

真の栄光が訪れたのは、エカテリーナ2世の治世だった。

1770年、女帝は琥珀の間をさらに拡張し、豪華絢爛な装飾を施した。金箔、クォーツ、ジェイド、オニキスといった半貴石、大きな鏡、琥珀で彫られたキューピッド像——。完成した部屋は、まさに地上の楽園だった。エカテリーナ2世は部外者の立ち入りを厳しく制限し、この秘密の宝物を愛でた。

琥珀の間は200年以上にわたってロシア皇帝たちの誇りであり続けた。だが、その運命は20世紀の戦火によって一変する。

略奪の悲劇 – 36時間の犯罪

1941年6月22日。ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連侵攻を開始した。「バルバロッサ作戦」である。

9月、ドイツ軍はレニングラード近郊のエカテリーナ宮殿を占拠した。ソ連側は琥珀の間を壁紙で覆い隠そうと試みたが、ナチスの専門家たちはすぐに見破った。琥珀は壊れやすく、6トンもの重量がある。疎開させることは不可能だった。

ドイツ軍の美術専門家2名の監督のもと、わずか36時間で琥珀の間は完全に解体された。

この略奪は偶然ではなかった。ヒトラーは占領地から美術品を組織的に収奪し、リンツに建設予定の新美術館「総統博物館」のコレクションとする計画を進めていた。琥珀の間はその最大の獲得物のひとつだった。

1941年10月14日、27個の木箱に詰められた琥珀の間は、東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)に到着した。ケーニヒスベルク城の博物館に再び組み立てられ、一般公開さえされた。

しかし、戦況はナチスに不利となっていく。

1944年8月、イギリス空軍による大規模な空爆がケーニヒスベルクを襲った。城は激しく損傷した。美術史家アルフレッド・ローデの証言によれば、琥珀の間は地下に移されたという。

そして1945年4月、ソ連軍がケーニヒスベルクを占拠したとき、琥珀の間は既に消え失せていた。

城には焼け焦げた跡があった。だが、琥珀の破片すら発見されなかった。

消滅の謎 – 5つの仮説

琥珀の間はどこへ消えたのか。80年近く、研究者、トレジャーハンター、各国政府が探し続けているが、決定的な証拠は見つかっていない。

現在、主に5つの仮説が存在する。

仮説1:破壊説(最も有力)

2004年、イギリス人ジャーナリストの調査チームが出した結論がこれだ。1944年の空爆、あるいは1945年のケーニヒスベルク城炎上によって、琥珀の間は完全に焼失したという。

琥珀は熱に極めて弱い。火災に遭えば溶解し、煙となって消える。破片すら残らない可能性が高い。ソ連軍が占拠したときに何も発見できなかったのも、これで説明がつく。

最も現実的で、最も悲劇的な結末だ。

仮説2:地下保管説

ケーニヒスベルク城には複雑な地下迷宮が存在していた。琥珀の間はその奥深くに隠匿され、今も眠っているという説だ。

しかし、この説には致命的な問題がある。1969年、ソ連政権はケーニヒスベルク城を完全に解体し、跡地を埋め立ててしまった。地下迷宮も崩壊した。

仮に琥珀の間が地下にあったとしても、琥珀の保存には一定の温度と湿度が必要だ。80年もの間、崩壊した地下で原形を保っている可能性は極めて低い。

仮説3:ドイツ国内への移送説

ナチスが敗北を悟り、琥珀の間を再び解体してドイツ本土へ密送したという説がある。

最も有力な候補地は、ゴッティンゲン近郊の塩鉱山だ。ナチスは略奪美術品を各地の塩鉱山に隠匿していた。しかし、この鉱山は現在水没しており、調査は困難を極める。

ロシアの歴史学者アンドレイ・プルジェズドムスキーは、カリーニングラード近郊の秘密保管庫説を唱えている。だが具体的な証拠はない。

仮説4:海外逃亡説

2020年、ポーランド沖でナチスの沈没船が発見された。一部の研究者は、この船に琥珀の間が積まれていた可能性を指摘している。

また、敗戦後に南アフリカへ逃亡したナチス指導者たちが、琥珀の間を密輸したという説もある。だが、いずれも決定的な証拠は提示されていない。

仮説5:複製品すり替え説

最も意外な仮説がこれだ。

ロシアの専門家フョードル・モロゾフは、ソ連が戦前に複製を作成し、本物はどこか安全な場所に保管したと主張している。ナチスが奪ったのは実は精巧な複製品だったという。

この説を支持する状況証拠として、米国の実業家アーマンド・ハマーへの「琥珀の間の一部」の贈呈エピソードが挙げられる。だが、これが本物だったのか複製品だったのかも、今となっては確認する術はない。

真実はいまだ闇の中だ。

奇跡の復元 – 24年間の挑戦

琥珀の間が失われたことに、世界は深い悲しみを抱いた。とりわけロシアにとって、それは国家的な喪失だった。

1979年(一説には1981年)、ソ連政府は大胆な決断を下す。琥珀の間を完全復元するプロジェクトの開始だ。

しかし、その困難は想像を絶するものだった。

視覚的資料は、わずか86枚の白黒写真しか残されていなかった。色彩、質感、細部の装飾——すべてを職人たちの想像力と技術で再現しなければならない。

プロジェクトは国際協力によって進められた。ドイツのルールガス社が350万ドル(約3億8500万円)を支援した。かつて琥珀の間を奪った国が、その復元に協力する。歴史の皮肉であり、和解の証でもあった。

450キログラムの琥珀、数え切れないほどの宝石、金箔——。総費用は1135万ドル(約12億6000万円)に達した。

24年間の歳月を経て、2003年、琥珀の間は蘇った。

サンクトペテルブルク建都300周年記念の年。フランス・エヴィアンサミットに集まった世界の首脳たちは、復元された琥珀の間を目にして言葉を失った。

そして2000年、ドイツ政府はフィレンツェ風モザイクと琥珀の箪笥——オリジナルの琥珀の間の装飾品の一部——をロシアに返還した。約60年ぶりの帰還だった。

復元された琥珀の間の推定価値は500億円。夏季には入場規制がかかるほどの人気を集め、今日も世界中の訪問者を魅了し続けている。

失われた美と歴史の教訓

30年以上にわたって琥珀の間を探し続けたあるトレジャーハンターは、こう語った。

「新しい間の方が、むしろ良いのかもしれない」

失われたものを求め続ける人間の情熱。それを取り戻そうとする技術と協力。琥珀の間の物語は、破壊と再生の両面を映し出している。

琥珀の間は単なる宝物ではなかった。プロイセンとロシアの友好の象徴であり、人類の芸術的達成の頂点だった。それが戦争という狂気によって奪われ、消え去った。

今も世界のどこかで、トレジャーハンターたちは探索を続けている。地下迷宮を、沈没船を、古文書を。いつの日か、オリジナルの琥珀の間が発見される日が来るかもしれない。

だが仮に発見されなくとも、琥珀の間の伝説は消えることはない。

それは、戦争がいかに文化遺産を破壊するかの警鐘として。
そして、失われた美を取り戻そうとする人間の不屈の精神の象徴として。

琥珀色の輝きは、永遠に歴史の中で光り続けるだろう。


現在、復元された琥珀の間はサンクトペテルブルクのエカテリーナ宮殿で公開されています。ロシアを訪れる機会があれば、ぜひこの奇跡の復元を自分の目で確かめてみてください。

※記事内の画像は全てイメージです

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投稿者: toshi196747

1967年生 文化遺産 など先人の轍を感じる物事が好きです、又 fenderギター を愛するguitar弾きです。 愛犬cookieに癒されながら、好きな読者と記事更新に勤しんでいます。 人が宿すノスタルジーという心情には夢を含みます、そこには明日の創造へ繋がるインスピレーションを得る『温故知新』が有るのです。 どうぞ過去考察ブログ『time slip cafe retro-flamingo』よろしくお願い致します。