日本特有の「生きづらさ」の正体──明治時代の道徳観が今のSNSを支配している理由

SNSに溢れる”あの言葉”の正体
「努力が足りないんじゃない?」「成功している人はみんな頑張ってる」「自己責任でしょ」
SNSを開けば、こうした言葉が飛び交っています。誰かが困窮を訴えれば、必ずといっていいほど「努力不足」を指摘する声が上がる。まるで、苦しんでいる人間は努力を怠った「自業自得」の存在であるかのように。
実はこの価値観、150年前の明治日本で形作られた「通俗道徳」という思想が源流なのです。「勤勉・倹約・貯蓄を続ければ必ず成功できる」「貧困は努力不足の結果」─こうした考え方は、私たちが生まれるずっと前から、日本社会の深層に根を張っていました。
では、なぜ明治の人々はこんな過酷な道徳を受け入れたのか? そして、それは今の私たちにどう影響しているのか? 歴史を遡りながら、この問いに向き合ってみましょう。

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SNSに溢れる”あの言葉”の正体

「努力が足りないんじゃない?」「成功している人はみんな頑張ってる」「自己責任でしょ」

SNSを開けば、こうした言葉が飛び交っています。誰かが困窮を訴えれば、必ずといっていいほど「努力不足」を指摘する声が上がる。まるで、苦しんでいる人間は努力を怠った「自業自得」の存在であるかのように。

実はこの価値観、150年前の明治日本で形作られた「通俗道徳」という思想が源流なのです。「勤勉・倹約・貯蓄を続ければ必ず成功できる」「貧困は努力不足の結果」──こうした考え方は、私たちが生まれるずっと前から、日本社会の深層に根を張っていました。

では、なぜ明治の人々はこんな過酷な道徳を受け入れたのか? そして、それは今の私たちにどう影響しているのか? 歴史を遡りながら、この問いに向き合ってみましょう。

明治という激動──競争社会の到来と不安

明治維新後の日本は、文字通りの「激動」の時代でした。

江戸時代まで続いた身分制度が解体され、村落共同体による相互扶助のネットワークは急速に弱体化していきます。代わりに押し寄せたのは、市場経済の波と、国民国家としての再編成。人々は突然、「自由な個人」として市場に放り出されたのです。

自由──それは希望であると同時に、恐怖でもありました。村の共同体が保証していたセーフティーネットは消え、国家の救貧制度はまだ未整備。職を失えば、家族ごと路頭に迷う時代です。実際、各地で暴動や騒擾が頻発し、社会不安は高まっていました。

そんな中で、人々は新しい「生きる指針」を求めました。どうすれば生き延びられるのか? 何を信じればいいのか?

国家と知識人たちが用意した答えが、「努力すれば誰でも成功できる」という物語だったのです。

立身出世という希望と引き換えに

「身分にかかわらず、努力次第で立身出世できる」──これは当時、革命的なメッセージでした。

江戸時代なら、生まれた家で人生のほとんどが決まっていた。それが明治では、「勤勉・倹約・禁欲」を実践すれば、農民の子でも官僚になれるかもしれない。学問を修めれば、実業家として成功できるかもしれないという希望の物語です。でも、この物語には裏があります。

「努力すれば誰でも成功できる」の裏返しは、「成功できないのは努力が足りないから」となるのです…

つまり、貧しい人間は「怠惰な人間」であり、失敗は「自己責任」だという論理が、セットで正当化されていったのです。

学校・新聞・講演会・啓蒙書──あらゆるメディアを通じて、この価値観は浸透していきました。そして、「貧者救済は共同体の責務」という前近代的な倫理観は、次第に「甘え」として否定されるようになります。

実際、明治期の言説を見ると、驚くほど冷酷な言葉が並んでいます。「貧者を救済すれば怠け者が増える」「働ける者だけを救えばよい」「貧困は本人の不徳の証」──まるで、貧しい人間は人として扱うに値しないかのような扱いです。

これが通俗道徳の核心でした。市場経済で生き抜くための「自己責任」の倫理が、社会的弱者への冷淡さを正当化する装置として機能していたのです。

「修身」という公式道徳との共鳴

一方、学校教育では「修身」という教科で、別の道徳が教えられていました。

儒教由来の「孝行・忠節・倹素・忍耐」といった徳目と、「万世一系の天皇への忠誠」という国体論的ナショナリズムを結びつけた、国家公認の道徳です。天皇を頂点とする家族国家観の中で、臣民としての義務と徳性を涵養することが目標とされました。

この「上からの道徳」と、民衆レベルで流通していた通俗道徳は、実はよく共鳴していました。

どちらも「勤勉・倹約・忍耐」を美徳とし、個人の欲望を抑制することを求めている。通俗道徳が「よき労働者」を作り、修身が「よき臣民・よき兵士」を作る──結果として、競争社会を支える自己規律と、国家への忠誠心が、二重に刷り込まれていったのです。

歴史家の安丸良夫は、この通俗道徳を「日本の近代化における民衆の主体形成」を理解する鍵として位置づけました。それは単なる「国家の洗脳」ではなく、民衆自身が近代社会を生き抜くために内面化していった規範だったのです。

だからこそ、根深い。自分で選んだと思っている価値観ほど、疑うのは難しいのですから。

通俗道徳の暗部──排除と差別の正当化

しかし、この道徳には致命的な影響がありました。

「努力しない者は救うに値しない」という論理は、貧困や障害、病気で働けない人々への差別を正当化しました。構造的な格差や不公正があっても、すべては「個人の徳性」の問題に還元される。社会の側の責任は問われず、弱者はただ「自己責任」を背負わされました。

さらに恐ろしいのは、この論理が植民地支配にも適用されたことです。「働ける者だけ救えばよい」「助ければ怠ける」──こうした人命軽視の発想が、朝鮮や台湾での統治政策にも反映されていきます。

通俗道徳は、競争に勝ち抜く者だけが価値を持つ社会を作りました。そして、勝てない者・弱い者は、存在すら軽んじられる社会を生み出したのです。

現代の自己責任論へ──連続と断絶

では、現代の「自己責任論」は、明治の通俗道徳とどうつながっているのでしょうか?

連続する部分

努力信仰: 「頑張れば報われる」という物語への強い執着

貧困の個人化: 社会構造の問題を、個人の能力・意欲の問題にすり替える思考パターン

弱者への冷淡さ: 「自業自得」という言葉で、困窮者への共感を遮断する傾向

これらは驚くほど似ています。SNSで「努力不足」と他人を切り捨てる言葉を見るたび、150年前の通俗道徳が姿を変えて生き続けていることを感じます。

断絶している部分

もちろん、違いもあります。現代には曲がりなりにも社会保障制度があり、人権思想も浸透しています。グローバル資本主義の規模も、明治とは比較になりません。

しかし同時に、格差は拡大し、非正規雇用は増え、「頑張っても報われない」現実が広がっています。にもかかわらず、「自己責任」の物語だけが残り続けている。これは、明治よりもさらに過酷な状況かもしれません。

なぜなら明治の人々には、まだ「努力すれば報われるかもしれない」という希望がありました。でも今は、多くの人が「努力しても報われない」ことを知りながら、それでも「自己責任」を内面化させられているからです。

通俗道徳を乗り越えるために

では、私たちはどうすればいいのでしょうか?

まず必要なのは、通俗道徳を歴史的産物として相対化することです。「努力すれば報われる」という物語は、永遠不変の真理ではありません。それは、特定の時代に、特定の社会構造を支えるために作られた価値観なのです。

努力そのものを否定する必要はありません。自分の人生に責任を持つことも大切です。しかし、すべてを個人の徳性に還元し、構造的要因を無視する思考パターンは、私たちを苦しめるだけです。

「努力」と「責任」を、個人と社会の関係の中で再定義すること──それが、通俗道徳の呪縛から逃れる第一歩ではないでしょうか。

あなたは、誰を切り捨てますか?

最後に、読者のあなたに問いかけたいことがあります。

SNSで誰かの困窮を見たとき。ニュースで貧困問題を知ったとき。あるいは、身近な人が苦しんでいるとき。

あなたの中に、「自己責任じゃないか」という声が浮かびませんか?「もっと頑張ればいいのに」という思いが、よぎりませんか?

もしそうなら、それは150年前に仕組まれた思考パターンかもしれません。

私たちは今、分岐点にいます。このまま通俗道徳的な「自己責任社会」を強化していくのか。それとも、「努力」を個人の自己肯定感を支える物語にとどめつつ、社会的連帯や救済の倫理を組み込んだ、別の道徳フレームを作っていくのか。

「がんばれば報われる」という物語に、あなたはどこまで賭けますか? そして、報われなかった人を、あなたは切り捨てますか?

この問いに、正解はありません。でも、問い続けることだけは、やめてはいけないと思うのです。

終わり

最後までお付き合い下さり有難う御座います。

この記事が、あなたの明日を少しだけ彩るスパイスになれば嬉しいです。

【参考文献安丸良夫『文明化の経験』岩波書店、2007年松沢裕作『生きづらい明治社会』岩波ジュニア新書、2018年​​​​​​​​​​​​​​​​】

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投稿者: toshi196747

1967年生 文化遺産 など先人の轍を感じる物事が好きです、又 fenderギター を愛するguitar弾きです。 愛犬cookieに癒されながら、好きな読者と記事更新に勤しんでいます。 人が宿すノスタルジーという心情には夢を含みます、そこには明日の創造へ繋がるインスピレーションを得る『温故知新』が有るのです。 どうぞ過去考察ブログ『time slip cafe retro-flamingo』よろしくお願い致します。